099
仕事を終えての帰宅途中に、私を呼び止める声がして振り向いた。
中年の男が高級車の運転席から降り立ったところだった。じろじろと私の全身にからみつかせる視線で、正体がぴんときた。
「へえ……たいそう雰囲気が変わったもんだ。別人かと思ったよ。堅気の勤め人になったのか? 似合わないな」
私に並び、なれなれしく腰に手を回してくる。
「やめてください」
小さい声で咎めたが、相手はひるむ様子もない。
「吝嗇になったな。私の体が忘れられないくせに。いつもよろこんで泣いていたくせに」
周囲に目を走らせたが、私たちのいる道路は無人だった。ひとの気配もない。
男は私の耳に口を寄せた。
「私もおまえの体が忘れられないんだ。おまえは男を篭絡する悪魔だからな」
「そうですね、あなたを破滅させると思いますよ。私の養父の末路はご存じでしょう」
かたい口調で私が返すと、男は愉快そうに笑った。
「それで脅したつもりかね。私はおまえを手に入れられるなら、堕ちるところまで堕ちたってかまわないんだ」
そう聞かされて、自分が誰かの必要な存在、大切なものになれたと錯覚できたのは、遠い過去のことだ。
「さあ、乗りなさい」
助手席のドアをあけてうながす。私は拒絶した。
「乗るんだ」
命令が私を呪縛する。ひややかで抵抗を許さない、目と声と力で。私は本能的にびくりとすくんだ。心が遮断される。感情が閉じる。表情が消える。体が思考と無関係に座席におさまる。
私を中に閉じこめて、車は発進した。
誰とするかというのは、問題じゃない。
重要なのは、気持ちいいか、気持ちよくないか。それだけだ。
だから、生理的な嫌悪感を抱かずにすみ、乱暴なことも痛いことも病気になるようなこともされず、不味いものを飲まされたりしなければ、私はそれでいい。
どろどろでべとべとした感触と、独特で濃厚な匂いは好きではないが、それらに比べればまだ平気だ。
『いいの? ほんとうにいいの?』
脳裏に問いかけがひびいた。子供の姿をした私に、私は答える。
これは労働だ。金銭がもらえるのだから。
『後悔しないの?』
私の体は私の好きに使っていいはずだ。
『今こんなことをしたら、昔に逆戻りだ。一生あなたは抜け出せなくなるんじゃない?』
私が若いうちだけだよ。あと五年もしたら、きっと見向きもされなくなる。どうしてみんな重大に考えたがるんだろう。どうということないものなんだよ、たいしたものじゃない。
『どういう顔して、このあとナッちゃんの家に帰るつもり?』
秘密にしておけばわからない。今までどおり、円満に生活できる。この男もばかじゃないから、わざわざ吹聴してまわったりしない。
『ハルちゃんを裏切ってもいいの?』
ハルは、……ハルは、そばにいないじゃないか。
ハルがくれた白いうさぎ。ぼろぼろになって、ほつれて、汚れて、ちぎれかけ、ほころびたぬいぐるみは、ハルの苦悩を教えていた。
ぬいぐるみは、私の身代わりだったのだろう、私が本来ハルにそうされるはずだったんだろう。当たられ、壁に叩きつけられ、投げつけられ、踏みにじられ、抱きしめられ。
だから私も、ぬいぐるみをハルのように腕に抱く。
でもほんとうは、ハルにいてほしい。ハルに会いたい。ハルの顔を、声を、感触を、体温をたしかめたいよ。ハル。
『ハルちゃんがいなくなったのは、あなたのため。ハルちゃん自身を変えるためでしょう。それでもあなたは、あなたを変えないままでいいの?』
「降ろしてください」
私の口は知らないうちにそう言っていた。
「降ろす? おまえは、好きで車に乗ったんじゃないか。逃げようと思えばいくらでもできたはずだ。私を突き飛ばすことだってできただろう。自分の意志で、おまえは私についてきたのに、今さら何を言ってるんだ」
そうかもしれない。だけどそうじゃない。あなたのようなひとにはたぶん一生わからないけど、そうじゃないんだ!
「お願いですから、降ろして」
車の速度は落ちない。
「停めないなら、飛び降ります」
私はシートベルトをはずし、ドアをあけようとした。ロックがかかっている。自動車に疎い私は、どうすれば解除できるのか皆目見当がつかない。男が嘲笑を浴びせた。
恐慌に陥った。夢中で男の腕をつかんで揺さぶっていた。
「後生です! 車を停めて! 降ろしてください!」
「やめろ、危ない!」
悲鳴。耳をつんざくクラクション。歯が軋むようなブレーキ音。腹部に鈍くひびく衝突音。
大音声の嵐が、ごたまぜになって私にわっと覆いかぶさった。
私の意識と視界は暗転し、ぷつりと闇の中に消えた。