ふるふる図書館


097



「最低なのは僕だったね」
 長い長い沈黙のとばりをやぶったハルは、限りなく切なげだった。私のせいだ。どうしてこうやって、私は誰かを傷つけずにいられないんだろう。どうしたら、ひとの心がわかるようになる? 傷つけずにすむようになる? 人間らしくなれる?
 人間になりたい。他人の欲望のもとほしいままに扱われて捨てられる人形じゃなくて。
 よろめくように膝をついて、私の瞳をのぞきこんだ。ハルの虹彩は、落日の残照を浴びて紅茶色に透けた。
 夕やけに染まる高校の教室。私を待つハルとナツ。ただふたりのそばにいたいと願ったあの日。
「ごめんね。何も気づかなくて。全部背負わせていたんだね」
 ちがうよ、私はずっと守られていた。かばわれていた。救われていた。甘えていた。友だちというのは対等なはずなのに、一方的に寄りかかってばかりいた。一度くらい、役に立ちたかった。
「こんなにむごい仕打ちまでして。けっして嫌わないという約束も破ってしまった。きみは、何があっても僕を助けるという誓いを果たしてくれたのに……。僕がどうかしていた。ほんとうにごめんね。アキ」
 ハルが謝ることじゃない。私がそう仕組んだんだもの。
 視界にいるのは、私がよく知っているハルだった。憂いを帯びて、はかなげで、もろくて、繊細なハル。私の名を呼んでくれるハル。ついさっきまでの、まったく別人みたいなハルだったら、こんなに胸が騒ぐことはないのに。
 いや、私を手荒に扱いながらも、ハルは少しもせいせいした表情なんてしていなかった。晴れ晴れしてなどいなかった。誰しも、私を好きに扱うことに愉悦と恍惚の表情をしてみせるものなのに。
「嫌いになった……?」
 私がのどから押し出せたのは、問いかけのかたちもなさない、低いささやき。
「嫌いになりたかった」
 ハルが受ける。
「わからない? しんから憎んでいたら、ここに来ていない。ぶざまなほど苦しんでいない」
 ためらいがちに、指先をのばしてくる。許しを請うように、まつげが作る影が目もとで細かくおののいた。
 ハルの手が冷たい。私の肌が腫れあがって熱を持っているせいだろうか。
 光の一筋が、夕日を反射しながらハルの頬を伝い流れた。
「嫌いになりたかった、全身全霊をかけても。呪うようにずっとずっと願い続けた。でもむだだった」
「そうか、失敗したんだね、私の計画は」
 つい先刻まで私を痛めつけていた、ハルのほっそりとした、清潔で端整な、しなやかな両手。それらがやさしさと慈しみをこめて私の頬をつつんだ。ひんやりした感触がこころよかった。そのまま親指が私の唇をなぞり、血をぬぐった。
「もう、そんな計画はよそうよ。意味ないよ、今となっては。資格を失ったかもしれない、けど、やっぱり僕はきみの友だちでいたいんだ」
「私は、またハルを不幸にしてしまうよ」
「ならない。僕たちが離れ離れになるよりも不幸なことなんて、僕にはないんだから」
「ごめんなさい……」
 きみたちと友だちでいてもいいの? 一緒にいてもいいの? 許されるの? ハル。
「ハル。ごめんなさい、ハル」
 私はハルの名を口にのぼせる。ふたたび、みたび。その声が、その名前が、私を繰り返し繰り返し振動させる、ゆさぶる、ふるわせる、音叉みたいに。
「アキ。僕はしばらくきみたちとお別れするね」
 ハルが発したことばは、私に冷水を浴びせた。衝撃が、私の表情を変えさせる。ああ、もう気持ちを隠しておくことができない、仮面をかぶっていることができない。
「きみを殺しかけたんだよ、僕は、二回も。しばらく、きみと距離を置くべきだと思う。僕に巣くう闇を克服できるまで。それが僕への罰でもあるんだよ」
「いつか……いつか、また会える?」
 おさえきれずに私の顔がゆがんだ。ハルは私の髪に指を埋め、こわれものを扱う慎重さでそっと頬を寄せた。
「絶対に、きみに会いに行く。一人前の人間になって、アキの前に現れるよ、約束する」
「うん。うん。待ってる」
 幼児みたいに幾度も幾度もうなずき、ハルに夢中でしがみついてしばらく嗚咽した。
 ナツが私の手を握った。
「ねえアキ、うちにおいで。兄弟が家を出たから、部屋が余ってるんだ。気兼ねしなくていいよ、母さんよろこぶから。うちで暮らそうよ、ね。男手もほしいしさ」
「男手?」
 なんと私に不似合いな言葉だろう。吹き出してしまった。こんなときなのに。
「私は何も役に立たないよ、見てわかるだろう? 電球を取り替えることくらいしかできない」
 ナツも笑い出した。
「おれが全部、一からみっちり教えるに決まってるじゃないか」
 ハルもおかしそうに笑っている。
「やっぱり僕、かなわない、ナツには」
 三人の笑い声が、汚れた廃墟を清めるように、晩霞の中を交錯した。

20060705, 20141006
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