ふるふる図書館


092



 ハルのアパートの部屋はすみずみまで磨き上げられていた。
「ああ、いらっしゃいナツ」
 出迎えてくれたハルはぞうきんを手にしている。生き生きとしていて、血色もいい。おれは中を見回して感心した。
「うわあ、すっかりきれいになったね」
「うん、このままじゃいけないと思って。ほんとにごめんね、今まで世話かけて」
 ハルはにこにこしながら、バケツでぞうきんをゆすぎ、せっけんで手を洗った。
「何飲む? クッキーを焼いたから、紅茶にしようか」
 鼻歌を歌いながら、かいがいしく立ち働いている。
 今までどおりのハルだ。おだやかで、やさしげで、笑顔で。
 しかし、そこはかとない違和感が拭えない。何だろう、どこか変だ。
「いいよ、僕ひとりで支度するから、ナツは座ってて」
「う、うん。これ、のけておいていい?」
 テーブルの上に大きな封筒が載っていた。持つと少し重い。ハルがキッチンからひょいと上半身をのぞかせた。
「ああ、それ? 別に見てもいいよ?」
 おれの言ったことがよく聞こえなかったのか、返答が微妙にずれていた。けど、まあいいか。封筒を開けて中身を取り出してみた。
 一瞬声を失った。
 盆を運んできたハルが屈託なくのぞきこむ。
「興信所ってたいしたものだよね。そんな写真まで撮れるんだから」
「……これ、どうするつもりなの」
「そうだねえ」
 のんびりとハルが首をかしげた。
「こんなの表沙汰になったら、ハルのお父さんはただじゃすまないよ。アキだって窮地に立たされる」
「いいんじゃないの?」
 ハルはやっぱりやわらかく微笑んでいる。
「事実、そういうことをしているんだもの。困ったって当然でしょう?」
「ハルらしくないよ、そんなこと……」
「僕らしくない?」
 ハルの仮面と声音がひびわれる音を聞いたと思った。それなのに、同じ顔、同じ声。
「僕らしさってどういうもの? なんだかもう忘れちゃったよ。そんなものがあったかどうかさえわからないんだ。今が僕らしくないなんて、どうして言えるの」
 なんて答えていいのか考えようと、とりあえずおびただしい枚数の写真を封筒に戻そうとした。正視に堪えない。
 手首をつかんで、ハルはおれの動きを封じた。口もとはやはり笑いの形にゆがんでいたが、瞳が妙に輝いている。爛々と。
「ほらすごいよね、アキって。こんなにたくさんのひとを相手にしてるんだよ。会社の取引先の人間だけじゃなくて、自社の重役も大勢。これがもう、幼いときからだっていうんだから、たいした凄腕だね。
 年端もいかない子供をそういうふうに扱って、父はのし上がってきたんだよ」
 本気だ。本気で情報をさらそうとする気だ。
「そういう者は裁かれないと。制裁を受けないと。ね、そう思うだろう、ナツも」
「ハルは、それでいいの?」
「当たり前だよ、今度こそゆがみを正さないといけないんだから。母の二の舞はしないように」
 正論なだけに、反対できない。おれがハルに言い負かされる日がくるとは思わなかった。
 だけどいつか、ハルが後悔しそうな気がして。

 ハルの実家には、報道陣が押し寄せた。
 ハルの父親と、彼が経営する会社の闇は、ゴシップ雑誌にこぞって暴き立てられた。
 テレビでは連日話題をさらった。ハルの父親が茶の間に映し出されないことはなかった。父親は無口かつ無表情でひたすらフラッシュを浴びている。猛禽の集団に襲いかかられた獲物のようで、おれは気分が悪かった。裁くのは法でなくてはいけない。第三者の貪欲な好奇心であっていいわけがない。
 ハルは顔色ひとつ変えないで、ブラウン管ごしに父親を凝視している。
 ハルのところにも記者がやってきては、おもしろ半分に勝手な記事を書き散らした。「血のつながりのない親子の確執」だのなんだの、吐き気がするような内容だ。
 アキの存在は、ほとんど明るみにされなかった。被害者ということを考慮されたのか。
 それだけが救いだった。そこにしか救いはなかった。
 いつか、すべてがおさまる日がやってくるんだろうか。
 いつか、やわらぐ日がやってくるんだろうか。ハルの苦しみと、アキの苦しみが。

20060704, 20141006
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