ふるふる図書館


091



 だしぬけに、アキが僕の前に飛び出してきた。
 しどけない姿をしていた。細くしなやかな髪も、素肌にシャツを羽織った服装もはしたなく乱れている。
 僕を見ておどろいてはいるのだろうが、瞬きもせずにぼんやりと焦点が合わない瞳を向けてくる。花びらみたいな唇も、やわらかくほころぶようにひらかれていた。
 あまり見せることのない、隙だらけのアキの姿だった。目の毒になりそうなほど蠱惑にあふれていて、おかしな想像をかきたてられてしまう。
 脳裏に勝手に広がり出すアキの姿態。急いで振り払おうと努めた。
 まさか、父と枕を交わしていたというのか、よりによって僕の部屋で。
 胸が錐をもみこまれたように疼いた。自然に眉根が寄る。
「確かにね、僕の部屋もいずれはきみのものになるんだろうね」
 どうして嫌味を吐き散らすんだ、僕の口は。
 ちがう、そんなことを言いにきたんじゃないはずだ。
 僕の知らない僕が、僕を衝き動かす。アキに包丁を向けたときと同じだ。
 アキは聞こえているのかいないのか、表情を変えず、美しくもみだらな彫像のように立ち尽くすだけだ。
 ただ一言でいい、何か言って。どうか僕を止めて、アキ。さもないと、また取り返しがつかないことになるかもしれない。
 すがるようにアキの反応を請うあまり、僕は愚かにも、さらにひどいことを口走った。
「でも、まだ僕のものだろう、そこは。恥知らずなことをするのは勝手だけど、いかがわしい旅館のかわりにしないでくれないか」
 恥知らずなのは僕のほうだ。そう罵って。責めて。怒って。ちがうと言ってよ。お願い。お願いだ。お願いだから。
 のどをしぼられるほど切実な心の呼びかけはむなしく、徒労に終わった。顔から血の気がひいていくのが自分でわかった。
 否定できないの? やっぱりきみは僕の部屋でそんなことをしていたの? 弁明も弁解も釈明も言い訳もしないの? 僕にどう思われてもいいの?
 突然、むらむらと、胸にこみあげた。まぶしくて、暗くて、熱くて、冷たくて、圧倒的なエネルギーを持つ何かが。
 この場でアキをめちゃくちゃにしてやりたかった。髪をつかんで、ひきずり倒して、ひどいめにあわせたかった。だいなしにしてしまいたかった。
 そんな劣情が鎌首をもたげたことが、僕を暗澹とさせた。そんな衝動が自分にあることが、僕を愕然とさせた。
 僕は視線を逸らした。アキをこれ以上見ることができない。
「どうにかしてよ、だらしない格好。見苦しい」
 つむぐ言葉が捨て台詞になる。
 なぜ、僕に侮蔑されるようなまねをするの。僕の嫌悪をかきたてるようなことをするの。
 わかったよ。アキは僕の大事な友だちだったけど、アキにとって僕はちがうんだね。そういうことなんだね。これは思い上がりの手痛い代償ということなんだね。
 僕たちの間の、けっして埋めることのできない隔たり。この瞬間に生まれたものじゃない、ずっとあったものだった。目を逸らさなければ、すぐに気づいていたはずなのに。気づいていれば、僕を打ちのめすことなんかなかったのに、少なくとも今は。
 背中を向ける。
 振り向かない。振り向けない。振り向いてはいけない。
 胸のうちで唱えつつ、僕のどこかは期待していた。背後から、アキの声がかかるのを。アキの手がさしのべられるのを。アキの足が追いかけてくるのを。
 だから、遠ざかる歩調はことさらゆっくりだったのに。
 とうとう、アキは僕に何ひとつ向けなかった。感情のこもらないまなざし以外には。
 もう、おしまいだ。
 はじめてひとを憎いと思った。その相手が、アキだったなんて。
 僕は、アキにつながる何もかもを、握り潰す。過去も、今も、未来も、想いも、願いも、ことごとく。
 声に出さずに、別れを告げた。
 さようなら、アキ。

20060702, 20141006
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