ふるふる図書館


090



 時計が目に入った瞬間、跳ね起きた。
 こんなに長いこと寝る気はなかった。せいぜい五分ていどのつもりだった。
 ここ数日、ろくに眠っていなかった。ハルのベッドに身を横たえたとたん、泥のようにねっとりと重たい睡魔の腕にひきずりこまれて、たちどころに熟睡してしまったのだった。
 すでに二時間も意識を失っていたことを短針は示していた。
 養父が帰ってきているかもしれない、急いで階下におりよう。
 できるかぎりすばやくハルの部屋を出て。
 そのまま立ちすくんだ。
 まさに、部屋の主がそこにいたのだ。
 無断でハルの私室に入っていたところを見られた。何を言えばいいのかと混乱して、私は黙りこくった。
 ハルは目をすがめた。
「確かにね、僕の部屋もいずれはきみのものになるんだろうね」
 私の頭は、どう受け答えすべきか考えを導き出してくれない。まだ覚醒しきれていなくて、うまく働かずぼんやりしているせいか。いや、私は寝起きがよいほうだ。不意打ちの連続だからだろうか。日夜蓄積されていく心身の疲弊と磨耗のせいかもしれない。
 逡巡の隙を縫って、ハルが言葉を続けた。
「でも、まだ僕のものだろう、そこは。恥知らずなことをするのは勝手だけど、いかがわしい旅館のかわりにしないでくれないか」
 声もまなざしも表情も態度も、何もかもがひややかだった。もともと色の白いハルの肌が、動脈さえ透けて見えるほど青ざめている。
 ハルは誤解しているのだ。
 できるわけないじゃないか、ハルの部屋でなんか。絶対不可侵の私の聖域なんだから。私に残された最後の、唯一の、安らげる場所なんだから。
 だからといって、今、かんちがいだと主張して何になる? ハルの部屋で何をしていたのか問われたら。答えるなんてできやしない、本当のことなんか。
 ハルの父親のもとに身を寄せる決心をした日だって、たくさん語りたかった、たくさん伝えかった、偽らざるハルへの気持ちを、もう二度と告げることができないのだから。でも言えやしなかった、ハルに無残な傷をより一層残す結果に終わるだけだとわかっていて、どうしてそんなまねができるだろう?
 ハルは顔をそむけた。けがらわしいものからのように。
「どうにかしてよ、だらしない格好。見苦しい」
 私は機械的なしぐさで、のろのろとシャツの袷に手をやった。
 そのとおりだ、私はけがらわしい。ハルやナツのそばにいられないほど。とっくにわかっていたことだから、衝撃でもないし、かなしくもないし、傷つきもしないし、絶望だってしない。
 ハルはもう、こちらを一顧だにしないで遠ざかっていく。たとえ私が何かを言っても、すべて拒み、はねかえすような、冷淡で峻険な後姿。
 私の瞳はしっかりとボタンを見つめ、私の指先は、厳粛な儀式のようにいやに丁寧に時間をかけて、ひとつひとつボタンをはめていった。のどもとまで丹念にきっちりと。ほかのものなど何も目に入らないみたいに。
 蔑まれて、汚いと思われて、顔も見てもらえなくなる。口もきいてもらえなくなる。
 これが私の望みだったんだ。そうなるように、最初に仕向けたのは、私だったじゃないか。
 私ののどから、声がもれた。力ない、疲れきった、吐息めいた笑いだった。
 壁に肩口を預けた。立っていることすら億劫で、そのままずるずると滑り落ち、床に座りこむ。
 誰もいない廊下で、私は痙攣的に笑い声を上げ続けた。

20060702, 20141006
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