ふるふる図書館


089



 僕が実家に到着したとき、父はバスルームにいたようだった。
 白いローブだけをまとった姿で、リビングにいる僕の前に姿を現す。湯上がり特有のあたたかさと湿り気を含んだ、ダマスクローズの香りが強く立ちのぼってきた。
 着替えもせずに、ソファに腰をかけた。僕に直角に隣り合う位置だ。
 ブランデーをすすめられたが断った。
「二十一にもなって飲めないのか、チハルは」
「まだ二十歳です、誕生日は来月ですから」
「そうだったか。何かプレゼントしてほしいものはあるか」
 父が僕の誕生日を正確におぼえているはずないとは思っていた。それにしても上機嫌らしい。ふっと笑みをこぼした。
「言わなくてもわかるさ。友だちを返してほしいのだろう。その憔悴しきった様子で一目瞭然だ」
「あの、お父さまは……」
 言いさして、頬が火照った。
「お父さまは、アキを」
 顔の熱に水分を取られたように、口中がからからに干上がる。
「アキのことを愛しておいでなのですか?」
 父はちっとも動じずに問い返した。
「体か? 心か?」
 どきりとした。
 父は裸にバスローブ一枚を羽織ったきり。突然、それが恥ずかしくてたまらなくなった。
 もしかしたらたったの今まで、アキと行為に及んでいたのかもしれないと、僕の頭は余計な推測をする。
「僕は……僕は、父親としてのことをたずねたんです」
 蚊の鳴くような声で反論した。
「ごまかすな。だったら、なぜそんなに真っ赤になることがある?」
 ひたすら愉快そうにからかうのへ、僕はなんとかことばを返すことができるだけだった。
「お父さまこそはぐらかさないでください」
 父はゆったりとソファにもたれてこともなげに返答を吐いた。
「前者かな」
「心では、愛していないと? それなのに、そんなことをしていると?」
 頭を抱えたくなった。もし、母の言ったとおり父がアキに特別な感情を抱いているのなら、しかたがないと自分を納得させることができるかもしれなかったのに。
 首を大きくふると、手入れを怠って不揃いになった髪がばさばさと踊った。
 今夜ここに来たのは失敗だった。ソファから腰を上げた。
「帰ります」
「『弟』に会っていかないのか?」
 もう一度かぶりを、今度は弱々しくふった。
「いいんです。もう」
「チハル」
 父が呼んだ。
「つらいなら、私から友だちを取り返せばいい。彼は、莫大な借金を返済し終えるまでは、社長秘書の職につくことになっている。相当な年月がかかるだろう。つまり、おまえが社長になれば友だちはおまえのものだ」
 口ぶりは存外真面目で、僕は父の真意をはかりかねた。
「彼は、ものじゃない。ゲームの賞品じゃありません」
 ルーレットはすでに回転している。玉がどこで止まるのかなんてわかりもしないし、僕の手でどうすることもできない。賭けもせず見届けもせず、きらびやかで空虚なカジノをあとにするだけだ。
 ただ。
「彼は……元気なのですか」
「気になるのなら、自分で確かめたらいいだろうに。寝室で休んでいるはずだ」
 寝室と聞いてためらった。
 それでも、結局は、向かってしまうのだ、アキのもとに。

20060702, 20141006
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