088
うさぎのぬいぐるみを壁に投げつける。拾い上げては腕に抱く。今度は床に叩きつける。かがみこんではほつれた箇所を指でなでる。
わずかな間にくたびれきってぼろぼろになっているのに、捨ててしまえない。
どうしてここに置いていったんだ。あの晩がらんとした部屋の片隅に取り残されていたぬいぐるみは滑稽であわれで情けなくて、まるで僕だった。
アキのいなくなったアパートは広すぎ、冷たすぎ、静かすぎた。
部屋はすさんだ。キッチンのシンクには、汚れた食器がつみかさなった。何をする気にもなれない。何を食べても味がわからない。
ナツはときおりやってくる。何度も僕が口にした、怪我を負わせた謝罪の言葉を封じるように僕のだらしなさを叱る。叱りながらもてきぱきと掃除とかたづけをし、料理を作ってくれる。
だけどそのうちあきれるだろう、匙を投げるだろう、足が遠のくだろう、見放されるだろう、あきらめられるだろう。
アキに別れを告げられたからナツもそうだなどとは、道理の通らないおかしな理屈をこねているにすぎないと自分でわかっていたが、僕をとらえて離さなかった。そのくせ身動きさえもとれなくて、思考さえもままならなくて。
ナツの前では今までと変わらない態度を取ろう、しかし「今」っていつのことだっただろう、「今まで」ってどんなふうだっただろう、僕はうまく思い出せない。
また室内のものが散乱してきた。不思議だ、とりたてて何かしたわけでもないのに。でもまだ埋まらない。まだ穴だらけ。まだ隙間だらけだ。
壁に背をもたせかけ、両手を体のわきについて、自堕落な行儀の悪い姿勢でぼんやりと座っていた。
そのうちに耳が、流れてくるメロディをとらえた。ずいぶん近くから。
知らないうちに、僕は大声でアイルランド民謡をハミングしていたことに気づいた。いつかアキと歌った「春の日の花と輝く」を。
自分のどこかが壊れている、とようやく思い至った。
『どこまでおめでたいお坊ちゃんなんだろうね』
アキがにべなく指摘したとおり、僕は心が脆弱な、苦労知らずの坊ちゃんなのにちがいない。それとも、母の遺伝だろうか。母も弱いひとだった。血は争えない、と言ったのもアキだ。
しばらくぶりに鏡を見たら、ずいぶんみっともない顔をしていた。何日間、ナツ以外のひとと話をしていないのかも思い出せなかった。
身づくろいをして、上着を着た。春のなまぬるい夜気と、花の香りがまとわりつく街へと出た。
足はおのずと父とアキの住む家に向かっていた。
僕にせめて少しでも未来を予見する力があれば。
断じてこのとき実家に行くことはなかった。
あやまちをおかすことだってなかっただろう。