ふるふる図書館


087



 背後で扉が閉まる音がした。
 監獄の戸が閉ざされたように私の耳には聞こえて、弾かれたようにふりむいていた。すでに、そこにハルの姿はないのはわかっていたけれど。
 社長室のどっしりと重いドアを、小柄で細腕のハルがどんな心でひらき、立ち去っていったのかを想像すると、胸が張り裂けそうだった。
「とんだ茶番だな」
 ハルの父親が冷笑した。
「そこまでして、未練を断ち切りたいのか」
 自分が無感情で計算高くみえるように細心の注意を払いつつ、私は体勢をもとどおりにして、相手に向き直った。
「こんな別れかたをすれば、チハルは私を取り返そうとしてあなたの跡を継ごうと心を変える可能性があるでしょう。
 仮に、チハルがこれまで同様相続を拒んでも、私を後継者として確保できたのですから、あなたにとってひとつも損はないはずです。
 私はチハルのような身分ではありませんが、それなりに役に立つと思いますよ」
 思った以上にさめている自分の声が、私の心臓をぐさりと突き刺した。成功しすぎた演技が胸をえぐった。それでも必死で平静を装う。
 彼はくつくつのどを鳴らした。
「そうだな、確かにおまえは役に立つ。ずいぶんとね」
 指を私の髪に埋める。私は彼の胸に顔を伏せた。表情を悟られないために。
「ところで、先ほどの続きはしないのかね」
 うながされ、私はおもてを上げ、目をつぶった。
 私の存在は、意思は、感覚は、煙のように揺らめき、拡散し、希薄になって、消えていく。
 私によく似た、私の名を持つ空洞が残る。

 表向きの私の肩書は、社長秘書ということになっている。
 実態は、取引の商品だ。契約を結ぶためや、何かの見返りとして、私は差し出される。
 予定がなければ、夜な夜な社長と同衾する。
 どんなに疲れていても、誰と添い寝しても、相手より早く寝つくことも、遅く起きることもなくなった。
 もしかすると、眠りながら泣いているかもしれなかったから。
 どのみち、いやな夢ばかり見ては目をさまし、まんじりともできやしなかったけども。

 秘書といっても、常に社長と行動をともにするわけではなかった。
 社長が自宅に不在の夜は、几帳面にととのえられたハルの部屋に忍びこみ、ベッドにこっそり横たわり、突っ伏し、ほんの束の間まどろんだ。
 清潔な寝具からほのかに立ちのぼる、持ち主の残り香に包まれて。
 奮い立つようなよろこびと、自分を押し潰す罪の意識に翻弄されて。
 後ろ暗さをもたらす、秘められた慰撫に浸る。

 ナツは、自分をエゴイストだと称した。
 エゴイストは私だ。
 ハルには、私を恨んでほしい。蔑んでほしい。どうか、自分を犠牲にしてまで私を救おうなんて思わないでと強く祈る。
 誰かを憎むことなど、ハルにはむつかしいとわかっている。それでも。
 私を嫌いにならないと、ハルはつらいだけだ。楽になれずに苦しむばかりだ。
 ああ、それなのに。
 私のことを無視してほしいと願うことが、どうしてもできない。
 ハルにとっては、私を忘れてしまうほうがはるかに救われるのに。
 私は最低のエゴイスト。

20060630, 20141006
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