086
「ほんとうに、きみは、ここの家の人間になったんだね」
僕のつぶやきは、別人のもののように力なく艶もなくかすれた。
今では、アキは僕の弟だ。皮肉なことに。
「もう少しよろこんだら? きみは家から解放されたんだよ。絵を描いて暮らすのも、誰と結婚するもしないも自由だ」
「もしかして、僕のためなの?」
「自分のためだよ。きみといても私の欲は満たされない。それともきみ、私を抱く? できやしないだろう?」
僕はかっと赤面し、返答につまった。
「ねえ、お礼しようか。きみにはたくさん面倒みてもらったから」
「お礼?」
「私ができることはこれくらいしかないけれど」
気づくと、アキは息がかかるほど近くに立っていた。切れの長い瞳が、濡れたような妖しい光を放っている。下まぶたに落ちた黒ずんだ影が、おもやせした顔とあいまって異様になまめかしい。くらくらした。
「動かないで」
その一言で、僕はあっけなく呪縛にかかった。
しかし、快楽に慣れたような指先が体の一部分をかすめたとたん、思わずアキの手を激しく払い除けた。
アキはつまらなそうに横を向く。
「うれしくないの。そうだね、誰を相手にしてもできることだもの、きみには楽しくないね」
体のことなんていらない。僕が求めていたのはアキの心だったのに。
「僕たちは、こんな関係じゃなかったよね?」
いきなり、筆舌に尽くしがたい痛みがどっと胸に押し寄せた。
「きみにとってはそうだろうね。私は誰とだっていいんだ。実はね、きみにもそういう気持ちを持っていたんだよ。長いこと。
きみたちの手前、我慢していただけ。無欲なふりをしていただけ。淡白を装っていただけさ」
「僕は、僕は醜いから。そんなことをしたらアキが汚れる」
「本気で言ってるの」
アキの声音は、砕いた氷塊を吹きつけるようだった。
「きみが醜いはずあるわけない。けがらわしいのは私に決まってる。どこまでおめでたいお坊ちゃんなんだろうね、きみは。ほんとうに汚いことなんかまるで知らない。
どうして私をそんな目で見るんだ、この期に及んでまで。体も自尊心も売り払った性悪。きみを罠にかけてだまして、色じかけできみから財力も権力も奪って、この家を乗っ取った淫売だよ。きみのお母さんが死んだのをいいことにね。
私が誰とどういうことをしてきたのか話せばいい? この際だから教えてあげるよ」
めったにない饒舌さで、アキが滔々と語りはじめる。
「やめてアキ。そうやって自分を傷つけないで」
「困ったわからずやだね」
目の前のアキが発する氷点下の口調と、かつて同居していたアキのあどけない口調が。僕を交互にさいなむ。
「私の正体がそんなに衝撃だった?」
『ハルちゃん、怖いの。一緒に寝てもいい?』
「きみと暮らした私と比べてるんじゃないの?」
『ハルちゃんの行くところだったら、どこでもついていくから』
「そろそろ事実を受け入れたら?」
『ハルちゃんお願い、ぼくをひとりにしないで』
「だって私は」
『ハルちゃんがいてくれればぼくはいいの』
「毎晩のようにきみのお父さんと寝室で」
「うるさい!」
叫びがほとばしる。
アキのほうじゃないかあんなことを言っておいて僕を置いていったのは僕を捨てたのは僕を闇に突き落としたのは僕の前から去ったのは僕の手を振り払い叩き落したのは。
僕が僕の奥底深く固く閉ざした扉が、激しく叩かれ、壊れた。
テーブルにあったはずの包丁が僕の手に握られていた。明かりにぎらつく禍々しさ。
『死んでおしまいなさい』
そうアキに言ったのは僕の母。
包丁をアキに振りかざしたのは、アキの母。
ああ、僕は母たちと同じことをしようとしている。ここで、この場所で。
わかっていても、体は止まらない。
あの夜は腕で胸をかばっていたはずのアキは、腕を広げて胸をさらしていた。
笑顔だった。おだやかで幸せそうな。
ほんの一瞬だった。それは幻覚か、錯覚だったのかもしれないが、確かに、僕の視覚はそう捉えた。
うれしい、アキがそんなふうに笑うなんて。その表情が見たかったんだ。ずっと。
刃の切っ先は、あるべき場所に吸いこまれるように、アキの心臓めがけてまっすぐ飛びこんでいく。
「だめ!」
声がひびいた。視界からアキがいなくなった。
転じた目に映ったのは、アキとともに床に倒れこんでいるナツの姿。
僕とアキの間にとびこんだのだ。肩をおさえたナツの指の間から鮮血がしたたり落ちて、服を赤黒く染めている。
僕は突如として現実に立ち戻った。力が抜け、その場に座りこんでしまった。
「ごめん。ナツ。きみを傷つけたくなかった」
唇がわななく。手がふるえる。
「心配ない、傷は浅いから。それより包丁、片づけて、早く。危ない」
眉間にきつくしわを寄せてナツが答える。僕はなんてことをしてしまったんだろう。
アキが小さくつぶやいた。
「無鉄砲だ。もっと自分を大事にしたらいいのに」
すぐれない顔色で、ナツが笑ってみせた。
「わがままなんだ。ハルが犯罪者になるのも、アキがこの世から消えるのもいやだったんだよ。ハルはアキを死なせたがっていたし、アキはハルに殺されたがっていた。誰の願いもかなわないとわかっていながら、じゃまをした。おれはエゴイストだよね」