ふるふる図書館


085



 僕は深手を隠しきれないまま、ナツにことのあらましを説明した。
 ナツも少し呆然としたようだった。それでも気を取り直したように、強い光をたたえた瞳で、僕の目をのぞきこむ。
「ハル、アキを信じようよ。きっと、ハルのためを思って起こした行動なんだ。そうとしか考えられない。
 おれたち、ずっとアキを見てきただろ。アキのことをよく知っているはずだ。裏切ったりするような人間じゃないよ」
「……そうだよね」
 僕はおぼつかない心地ながらも、どうにかうなずく。平生と変わらないナツの態度が、僕の心にきつくからんでまとわりつく糸をほぐしてくれた。
「今度、アキに会いに行こう。ハルのお父さんの手前、そういう態度を取ったんだと思う。だから、三人だけで話そう」
 そうだ、このまま別れていいはずがない。まぶたを閉ざし、ふっと息を吸いこんだ。決意を固めるために。
「うん。そうしよう」

 ナツを連れて実家に帰ると、使用人たちは一様にはっとした、ばつの悪い表情をした。
 態度がよそよそしい。ぎこちない。僕が幼少のころから奉公している者でさえ、距離を置きたがっているそぶりを見せた。
 胸に、重苦しい鉛色の暗雲が立ちこめ、ふさぎ、見る間に覆い尽くした。
 僕はすでに、この家の者じゃないのか。
 彼らの主人は父と、アキなのか。
「チアキさまは、まだお帰りになっていらっしゃいません」
 どこか緊張感のあるかたい口調で告げられた。父よりは帰りが早いはずだという。
 居心地の悪さに耐え、僕たちはリビングでアキを待つことにした。

 ナツを残し、手洗いに立った。
 戻る途中、客間の前を通った。アキとはじめて出会った場所だ。
 そこに、アキがいた。
 いつの間に帰宅したのだろう。それとも居留守だったのか。
 白いうなじをこちらに見せているアキは、僕に気づいていない様子だ。
 手には、包丁が握られている。シャンデリアの明かりを反射している刃を、アキは右腕にあてがっていた。
 そのまま頭を垂れて動かないでいたが、しばらくのち、関心を失ったように得物をマホガニー製のテーブルへと無造作に投げ出した。
「アキ……。何をしているの?」
 呼びかけに、アキは別段おどろいたふうもみせなかった。
「来てたの。まだここはきみの家でもあるんだったね、今のところ」
 冷淡でそっけない口吻に、僕の心は折れそうになる。気持ちがくじけそうになる。勇気が萎えそうになる。
 アキの立居ふるまいはごく自然でゆったりとしており、長年この家で暮らし、かしずかれているかのようだった。優雅で貴族然とした落ち着き。
 口惜しいことに、見とれてしまう。まだアキのことを大切に感じていることを思い知らされる。僕をさんざんに打ちひしぐ。他愛ない、それでいてまぶしくきらめく時間の積み重ね、ともに過ごした陶然と輝かしい記憶の数々。
 僕は、アキに財産を譲ることを夢見ていた。家も家族もないアキに。
 望みは今にもかなおうとしている。眼前にあるのは、成就した願いのはず。
 それなのに、こんなにも、息が苦しい。

20060630, 20141006
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