ふるふる図書館


084



 社長室の革張りのソファに、アキと僕は並んで腰かけ、父と対面していた。
「私のもとで働きたいというんだね」
 父がたいして興味もなさそうにうなずいた。
「はい。私にかかった費用の全額を、労働で返済いたします。ですから、お給金は最低限で結構です」
「それでチハルを自由にしようというわけか。なるほどね、うるわしい友情だ」
 皮肉っぽい笑みをもらし、アキに視線を据えた。
「きみに何ができるんだ?」
「何でもいたします。骨身を惜しみません」
「きみは、我々のことを恨んでいるのだろう、寝首をかかれてはたまらないからな」
「そんなことは。全面的に援助していただいて感謝しています」
「口では何とでも言える」
「どうしたら、信用していただけるのですか」
「たとえば靴に接吻しろと言ったら、きみは従うのかな」
 アキは顔色を変えずにうなずいた。
「何を、何をおっしゃるんですか、お父さま」
 唐突な展開に声を乱す僕を、アキが目で制止した。父のもとにひざまずく。悪い冗談でも見ている気がした。
「きみにはこちらのほうがいいのだったか。上手にできたら褒めてやろう。それとも、チハルの前ではできないか?」
 父は、自分の口もとに指を当てた。アキの耳が赤く染まった。しかしそれはほんの一瞬のことで、たちまちすっと表情が消えた。吸い寄せられたように示された箇所に手をのばす。
「だめだよアキ! お父さまもやめてください。どうして、どうしてこんな」
「ハルは、黙っていてくれないか」
 アキがちらりと流し目をくれた。凍てつくようなまなざし、ひえびえとした声。僕は数瞬ひるんで息をのんだ。
「アキ。お願いだからやめて。心を殺さないで。そんなことしたくないんだ、いやがってるんだ、きみの本心は。ずっと一緒に暮らしたから、僕にはわかってる」
「その私は、この私じゃない。ハルが、私の何を知ってる? 何を理解しているというの」
「だったら、アキは、こんなことしてうれしいの? こんなこと命じられて楽しいの?」
「きみも知ってるはずだよ、ハル。私が、自分から相手を誘うような人間だって」
「無理やりだったでしょう?」
「そんなの、小さな子供だったうちだけさ。忘れた? 思い出さない?」
 万が一嘘だとしても、アキ自身の口から聞きたくなかった。耳をふさいでしまいたいのに、淡々としたアキの語りは僕を手加減なく侵食する。
 花火大会の夜も、小学生のときの放課後の廃屋でのことも、高校のときの生徒の呼び出しも、あれもこれも、全部アキが?
「どうして……」
「当然さ、私はやまんばの子供なんだよ。血は争えない」
「そんなの、アキのせいじゃない」
「私を作ったのは私だ。できることなら、きみとナツには隠していたかった、自分の本性を。こんなにもあさましくて、みだらで、ふしだらで、不潔で、淫乱な人間なんだよ、私は。
 だからもうお別れするよ、一緒には住めない。世界がちがいすぎるもの。今まで世話してくれてありがとう。ナツにもよろしく言っておいて」
「出て行くの? どうするの?」
「私が引き取ることにしよう」
 父がうっすらと笑って言い、膝をついたままのアキの腕をひいて、これ見よがしに細い腰を抱き寄せた。アキはまだ、僕から頬をそむけたままだ。
「チハルがそこまで家を継ぎたくないのなら、私がこの子と養子縁組してもいい」
 僕は悟った。この契約は成立済みだったのだ。ふたりに血のつながりがないことも、アキは承知していたのだ。
「それでいいの? この先自分がどうなるかわかってるの?」
 アキの肩をゆさぶった。
「ごめんね、きみから家もお父さんも財産も横取りだね」
「僕のことなんてどうでもいい。ねえ僕を見て。僕の顔を見て話をして」
「もう、きみと話すことは何もないよ」
 ゆっくりとこちらを向いた。
 アキは。
 笑っていた。
 くっきりと笑みを形作った唇が動いた。
「さようなら。友だちごっこ、割と楽しかったよ。チハル坊ちゃん」
 僕は放心した。気づくと会社を出て街をさまよっていた。
 どの街角にも、アキはいないのに。
 夜になり、ふらふらとアパートに帰り着くと、アキの持ち物はことごとく消えていた。
 ただ、僕が贈ったうさぎのぬいぐるみだけがぽつんと取り残されていた。

20060630, 20141006
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