ふるふる図書館


077



『お生憎さま。あなたと話すことなどありませんわ。たとえあなたとの間に何かあったにせよ、あのひとがあなたをほんとうに想っているわけではないのですもの。あのひとは誰も愛さないのですもの。
 だから、わたくしのことを振り向いてくれなくても、しかたがないとあきらめがついていたのですわ。あなたの産んだ、その子に会うまでは』
『その子は、ひとをたぶらかす化け物です。こんなに小さいのに、恐ろしいわ』
『どうやって、あのひとの心を手に入れたの、坊や。まじないでもできるの? その目は魔術が使えるの?』
『死んでおしまいなさい』
『その子さえいなければいいのよ。あなたが殺せるのならそうすればいいわ』
『わたくしがしたことを、責めもしないのね。なじりもしないのね。そうやって、あなたは妻であるはずのわたくしを拒むのね。いいえ、拒みさえしていない。無視すらしていない。はなから眼中にもないのですわ』
 幼い僕は、たしかに聞いていたのだった。
 記憶は風化し、移ろい、失われ、あざやかだと思っていたものはあやふやであいまいで、無意識のうちに自分で作り変えていたことを知った。
 町のひとたちが信じていたように、アキは父の妾の子で。アキの母がアキを連れて僕の家を訪れ、金銭をゆすろうとして。嫉妬に狂った母がアキの母に刃物を向けて。身代わりにアキの母がアキを殺そうとした、と。
 それなのに今になって、熱に浮かされた僕に、次々に過去の光景が襲いかかってくる。
 ああ、これは夢。体調のすぐれないときに見る悪夢。目がさめたら、忘れるもの。忘れなくてはいけないもの。

 僕は後部座席に乗っていた。隣には母がいる。
 電車に乗って帰宅できないほど具合が悪化したため、車で送られることになった。アキの待つアパートに帰ることを、母は猛反対したが、僕はなんとか押し切った。そこで母も同乗することにしたのだ。
 自宅の最寄り駅で降ろしてくれるよう、僕は懇願した。アキと母を会わせたくなかった。
 しかしそれは誤算だった。
 駅前のベンチの端っこに、ぽつんと座る人影。ダッフルコート、帽子、マフラー、僕と揃いの紺色の手袋。どうして見落とすことができるだろう。
 アキだ。
 僕を懸念して、迎えに来てくれている。いったいいつから、あそこにいるんだろう。寒いのに。ベンチは冷たいのに。僕がいつ戻るかわからないのに。ひとりで外に出るのをあれほど避けていたのに。
 鳩尾がきゅうっとしめつけられた。うれしすぎてやるせなく苦しいなんてことがあるんだ。
「そうよ、あなたのその顔よ」
 声に我に返った。
「あの子は、わたくしから愛しいひとをみんな盗んでいく。夫も、息子も」
 僕が止める間もなく、母は外へ飛び出し、つかつかとベンチに歩み寄った。はっと表情をかたくするアキにつかみかかる。
「いい加減におし、この厚かましい泥棒猫」
「お母さまやめて、アキは悪くない」
 金切り声でわめく母と、呆然としているアキの間に、夢中で割って入った。
「チハルちゃん、こんなあばずれをかばうの? お母さまの味方をしてくれないの? 目をおさましなさい。子供のとき、ずっとお母さまのものでいるって約束したでしょう。忘れてしまったの」
 お母さまを敵視するはずがない。望んだ愛情を手に入れることもできない、ひとりぼっちのお母さまをいたわりたいし、大切にしたいといつでもずっと思ってる。
 そう言えればよかった。
 なのに言えなかった。
 ふだんはたおやかな母の変貌ぶりが恐ろしくて。アキをあしざまにののしり、中傷する母が悲しくて。
 母の顔色は赤くなり、それから青ざめた。
「そう、わかったわ」
 低いつぶやきが不吉な気配を孕んでいた。
 母はきびすを返した。背中が細く、小さかった。
「ハルちゃん……お母さんのところに行って。仲直りして。ぼくのことはいいから、早く」
「いいんだ。アッちゃんを置いていけない」
 僕はアキを選んだ。
 ちがう、逃げだ。どちらかを選ぶなんて不遜なこと、きみにはできない。ただ、逃げたかっただけだ。悪鬼のような母、自分に執着する母、聞く耳を持たない母から。そうだろう? 母が去って、内心ほっとしたんだろう? チハル。
 僕の中の僕が問う。否定することができなかった。

20060628, 20141006
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