ふるふる図書館


076



 風邪が治ったか治らないかのうちに、実家から連絡が届いた。母の様子がおかしいというのだ。
 お正月も、ろくに家族に会わなかった。年始のあいさつだけをして、すぐにアパートに取って返した。アキをひとりにしたくなかったから。
 そんな短い時間しか母と接しなかったが、別にどこかが変わったとも見えなかった。
 また、僕を呼び出す方便なのだろうか。
 病み上がりの僕を心配顔で見つめるアキを、だいじょうぶだよと説き伏せて、とにかく屋敷に向かった。

 母の寝室をノックする。返答がないので、ためらいがちにそっと入った。
「チハルです。ただ今戻りました」
 やはり応えるのは沈黙だけ。
「お母さま? お加減はいかがですか?」
 重ねて話しかけると、ようやく上掛けから顔がのぞいた。不安そうに眉をひそめている。あどけなくかよわく頼りなげな少女のようだと僕は思った。
「チハルちゃん? 来てくれたのね?」
 まるで愛しい恋人を待ち暮らす少女。
 しかし、衣類をかいくぐって僕の肌をまさぐり、愛撫する指や手や唇の動きの大胆さは、初々しい少女のものではありえない。
「どうしていつもここにいてくれないの? ひとりにするの? 怖くてたまらないわ」
 それは僕の役目なの? 僕は身代わりなのではないの? お母さま。
「お父さまは?」
 しらじらしいとわかっていながらも、問いを発する。僕にもとうにわかっていた。父母の関係がうまくいっていないことくらい。父が野心のために、子持ちの母と結婚したことくらい。
「いいのよ、チハルちゃんがそばにいればもういいのよ」
 母が僕を抱きすくめる。華奢な体のどこにこんな力があるのだろう。
「だって、あのひとはあの子に取られてしまったんだもの」
「あの子?」
「そうよ、あの子よ。恐ろしい子。今は、チハルちゃんが見張ってくれているのよね。でも、いつまたあのひとをさらわれるかわからないわ」
 アキが、お父さまをお母さまから奪う?
「お母さま。彼はそういうことはしない」
 母が恨んでいるのは、アキの母親だったはずなのに、どうして根拠のない疑惑をアキに抱くのだろう。
「いいえ。あの子だけなのよ、あのひとの心を虜にするのは。もうずっとずっとそうなのよ。わたくしは、小さなころからあのひとをお慕いしていたわ。長いことあのひとを見ていたからわかるの。一度たりとも、あのひとはわたくしにやさしい言葉なんてかけてくれなかったわ。あの子だけなの。本当にそうなの」
 母の口調はくどくどとしていて僕を困惑させたが、内容のほうがさらに無視しえなかった。心の奥底から、耳を貸してはいけないと警告する声がしきりに上がっているのに、母の話をさえぎることができない。
「わたくしは見たのよ。あの女の産んだ子供に、あのひとがやさしくしているのを。わたくしよりも、チハルちゃんよりも、もちろんあの女よりも。だから、あの子に死んでほしいと思ったの。あの夜も」
 母が憎んでいるのは、アキの母親ではなかった。最初からただひとり、アキだったのだ。あの惨劇の起きた晩、母が殺意を向けたのも、アキに対してだけだったのだ。
「だけど、お父さまをアキがどうこうするなんて。お父さまと係わり合ったりなどしていないのですから」
「いいえ」
 再び母が否定する。地を這うような、呪いのような、低い声。僕の心臓が不意に激しく打ちはじめた。心拍数が異様に跳ね上がる。
「あなたのお父さまはあの子と」
 鼓動が、
「あのひとは、わたくしの手を握ることさえないのに。妻への営みなどまるでないのに」
 心音が、
「あの子には」
 うるさい。
 僕は熱があるんだ。それで奇妙な夢をみている。おかしな話が聞こえ、それから何も聞こえなくなった。
 動悸が、あまりにやかましくて。意識が遠のいて。
「わたくしは、一言だっていいから、あのひとからのことばがほしかったわ」
 幻聴が、そうささやいた。

20060627, 20141006
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