075
あのお金持ちそうな女のひとから、どうやって逃げてきたんだろう。
いつの間にか、アパートの近くまで来ていた。
はずむ呼吸がおさまるのを待って、道端のカーブミラーをのぞきこみ、自分の顔を確認した。もし怪我でもしていたら、ハルちゃんをびっくりさせちゃう。
よかった、なんともなってないみたい。
落ち着いたらハルちゃんのところに帰ろうと思うのに、なかなか胸のどきどきがとまらない。
遅くなったらハルちゃんに心配をかけちゃうのに。
ハルちゃんは寝ないでぼくを待っていた。
これじゃ風邪が治らないよ。
ぼくは、なるべくハルちゃんの方を見ないようにした。ハルちゃんは、ほんとうに具合が悪くて、ぼくのようすに気づかないでいてくれた。
前にぼくが倒れたときにハルちゃんとナッちゃんが看病してくれたことを思い出して、洗面器に氷を用意したり、濡れタオルをとりかえたり、おかゆを火にかけたりした。
ことこと煮える鍋を慎重に見張っていると、ようやく、波立っていた心が静かになってきた。
そうだ、おじさんが教えてくれたのをこしらえよう。
レモンを取り出して、ふと困った。切らなくてはいけないんだ。
今、包丁を見てはいけない。ぼくの奥底に眠る何かが、激しく警鐘を鳴らしている。
もう少し、後になってからにしよう。そっと、鮮やかな色をした果実をしまいこんだ。
「ありがとう、アッちゃんのお手製だもん、食べたらすごく元気になれそうだね」
ぼくがお盆に乗せて、こぼさないようにそっと運んできた器を受け取ると、ハルちゃんは笑顔でベッドに体を起こした。苦しそうなのどでお礼を言う。
「口に合うかわかんないけど、まだあるから、よかったら食べて」
ハルちゃんは、ひとさじずつおかゆをすくい、ふうふうと息をふきかけてはかみしめるように口に運んだ。すごくうれしそうだったから、ぼくは胸をなでおろした。
お相伴にあずかることにして、食欲のないおなかに少しだけぼくもおかゆを入れた。
本を見ながら、なんとか作った玉子酒も、ハルちゃんに渡した。ハルちゃんはアルコールに弱いから、ぐっすり眠れるだろう。
ハルちゃんがベッドで飲んでいる間、食器を洗い、自分のためにミルクをあたためた。ミルクパンから注いだマグを持ち、キッチンを出る。
ちらりと奥をうかがうと、ハルちゃんは、もう眠りに落ちていた。カップ、かたづけなくちゃ。マグを手にしたまま、ベッドのわきに歩いていく。
ベッドのわきに膝を立てて座り、寝顔を眺めながらぼくは熱いミルクをそろそろとすすった。
ぼくでも、ハルちゃんの役に立つことができるんだ。あたたかい陶器の肌と、牛乳の湯気と、甘い香りと味とが、ぼくの心をやさしくほぐしていく。
枕もとに封筒が落ちているのに気づいた。郵便受けに入っていた、ハルちゃん宛ての手紙だ。さっき、帰ったときに手渡したんだった。封が切られているから、寝る前に読んだんだろう。
几帳面なハルちゃんが、ほったらかしにするなんて珍しいな。おかしくなった。
ちゃんとしたところに置いておかなくちゃ。利き手を使うために、マグを右手に持ち替える。左指で封筒をつまんだら、中身がばらばらと落ちてしまった。
いけない。
あわてて、その写真を拾おうとして。手が、動かなくなった。
写真に写っている女のひと。ハルちゃんによく似ている。どうしてさっき気づかなかったんだろう。ハルちゃんのおもざしを彷彿とさせるから、出会ったとき好感を持ったんだ。あんな仕打ちをされるまでは。
このひと、さっきのひと、ハルちゃんの、お母さん?
夫も息子もぼくが奪っていくと言った。息子ってハルちゃんのこと?
ぼくはいったい、何? 誰なの?
いきなり、焼けつくような感覚が走った。あまり自由の利かない右手で支えていたマグが揺れて、ミルクが脚にこぼれていた。唐突な熱さと、ハルちゃんを起こしちゃいけないという思いから、とっさに悲鳴を飲みこんだ。
ぼくをなごませていたぬくもりが、一気にぼくをひどい痛みの中に叩きこんだ。心地よくさせていた香りが、突然甘ったるいものに変わり気持ち悪くさせた。
火傷だ。早く冷やさなくちゃ。
その考えを、頭の中でしばらく繰り返すばかりで、ぼくの体は木偶みたいに固まっていた。