ふるふる図書館


074



 年が改まって早々、ハルちゃんが風邪をひいてしまった。
 ベッドに横になり、熱っぽく顔を真っ赤にして、苦しそうに息をしている。ときおり咳きこむ。それでもぼくを気遣ってくれる。
「うつるから、アッちゃんはこっちに来たらだめだよ」
「お買い物してくる。お薬と、何か栄養のある食べ物」
「僕が行くよ、アッちゃんは家にいて」
 ぼくはもどかしくて駄々っ子みたいないやいやをした。
「ハルちゃんは寝てて。ぼくにも、それくらいさせてよ。約束したじゃない、ハルちゃんのこと助けるって。ぼく、おかゆも玉子酒も作ったことないけど、ハルちゃんの役に立ちたいんだ。だいじょうぶ、誰にも会わないようにすぐに帰ってくるから」
 ダッフルコートをはおり、マフラーで顔の下を覆い、毛糸の帽子をすっぽり目深にかぶった。ナッちゃんにもらった手袋をはめる。
「ほら、ぼくだってわからないでしょ。あっという間に戻ってくるよ」
 心配そうなハルちゃんに元気にあいさつをして、ぼくはアパートを出た。
 ほんとうは、怖いんだ。不安なんだ。いやな予感で胸がしめつけられる。ひとりで外を歩くなんて。

 のどの痛みに効くのは蜂蜜とレモンだと、薬局のおじさんが教えてくれたから、それも商店街で手に入れた。
 ずいぶん大荷物になってしまい、紙袋を抱えて家路を急いだ。
 暑くなってきたし、視界がせまくてじゃまだったから、マフラーと帽子をずらそうと交差点で立ち止まった。
 ずいぶん長いこと街中から遠ざかっていたので、交通についての感覚が麻痺していたんだ。そう気づいたのは、黒塗りのセダンが衝突しそうになったからだ。
 急ブレーキの耳障りな音が空気をひきさき、ぼくはおどろいたのとよけようとしたのとで、よろけた。荷物のせいでバランスを崩し、しりもちをついた。
 道路に、黄色いレモンが散らばり、ころころと転がった。
「すみません。だいじょうぶですか!」
 運転席から、黒い服を着た男のひとが出てきた。
「はい。こちらこそごめんなさい」
 後部座席から、女のひとも降りてきた。
「お怪我はありませんでした?」
 たずねながら、白いほっそりとした手で一緒にレモンを拾い集めてくれた。おだやかで、きれいで、やさしそうなひとだ。品のよい、上質そうなコートをまとい、いい香りをただよわせている。
 お礼を言って女のひとの顔を見た。
 視線が合った。
 途端、微笑んでいた女のひとの表情が凍りついた。
「なぜ。なぜあなたがここにいるの。死んだはずではありませんでしたの」
「え?」
「それとも、秘術で生き返ってきたとでも?」
「あの……ぼくは」
 おずおずと口をひらいたら、女のひとの眉が動いた。
「ああ、あなた、あのひとではないのですね。人違いをしていましたわ。瓜二つだったものですから」
 誤解がとけたのだと、ぼくはほっとした。女のひとが、ぼくの頬に指先をのばした。手入れの行き届いた、上品なパールピンクの爪。
「そうね、あの女ではないわ。この目は、あの女よりもよほどみだりがわしいもの。よこしまでいかがわしくて、おそろしい魔力があるのですもの。その瞳で、何人の人間を狂わせてきたのかしら、あなたは」
 ちくりと痛みを感じた。おそらく、目の下のほくろを爪の先が刺したんだろう。
「あの女の最大の咎は、あなたをこの世に産み落としたことだわ。あなたは、わたくしから何もかも奪うのね。夫も、息子も」
 ぎりぎりと、爪が肌に食いこんだ。ぼくは微動だにできずにいた。
「どうしてあのとき、死んでおしまいにならなかったの」
『死んでおしまい』
『死んでおしまいなさい』
 誰かがぼくを責め立てる声が重なる。増幅する。
 我に返って身をひるがえしたら、ぼく目がけてレモンが投げつけられた。ハルちゃんの大事な食べ物とお薬の入った袋を抱えているから、うまく体をかばうこともよけることもできない。こめかみに命中した。
「この、悪魔の子!」
「奥さま」
 目を三角にしたすさまじい形相と迫力でぼくをなじる。初対面の、たおやかな雰囲気はみじんもない。運転手さんがあわてふためいて女のひとをなだめた。
 アスファルトに落ちたレモンが、みずみずしくてすがすがしい、さわやかな香りをむなしく撒き散らした。

20060616, 20141006
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