072
もうひとりのぼくがいなくなってから、突然、たまらなく不安になった。
ぼくは、アキじゃない。
ハルちゃんとナッちゃんの知ってるアキじゃない。
あのアキは、もう現れない。
ふたりは、ぼくから離れてしまうだろうか。ふたりが求めているアキがぼくじゃないと知ったら、見放してしまうだろうか。
ハルちゃんも、ナッちゃんも、あのアキのおもかげをぼくに見ている。
もとのアキに戻ることを期待している。
ハルちゃんにも、ナッちゃんにも、ぼくにも、消えてしまったアキの影が落ちている。
ぼくは、誰からも望まれてない。
「ぼくもお料理したい」
ぼくの申し出に、ハルちゃんはおどろいた顔をした。
「いつもハルちゃんにばかりやってもらってるから、悪いよ」
「アッちゃんもいつもお手伝いしてくれてるじゃない」
「だけど……」
「アッちゃん、僕はね、アッちゃんに僕が作ったものをおいしく食べてもらうことがうれしいんだ。負い目や引け目を感じることなんてないんだよ。それに、今までだって、お掃除もおかたづけもしてくれてるんだから」
だけど、これがずっとつづいたら、ハルちゃんだっていやになるでしょ? 負担になるでしょ?
胸のうちでぼくは言う。口には出せない。声にして問いかければ、ハルちゃんは否定する。そうしたら、ぼくに愛想を尽かしても、ぼくを捨てられなくなってしまう。
ハルちゃんの桎梏にはなりたくない。
「ううん。ぼく、お料理をおぼえたいだけ。ぼくだって、ハルちゃんに食べてほしいもの」
ハルちゃんはやわらかい日ざしのようにあたたかく微笑む。
「ありがとう。そのうちにね」
「そのうちっていつ?」
「アッちゃんが元気になったら」
はぐらかすつもりなのかもしれない。
「ぼくもう治ったもん。ほら」
「あっ、そっちに行っちゃだめ!」
ハルちゃんの叫びが追いかけてくる。
はっと気づいた。
ぼくの目の前には、キッチン。シンク。まないた。りんご。それから、光。まぶしい白い光。
反射させているのは、刃物。ナイフ。
明かりにひらめく包丁。
『死んでおしまいなさい』
『役立たずのごくつぶし』
『おまえなんか死ねばいい』
「いやああ!」
耳をつんざく悲鳴が上がった。それにかき消されることなく、ぼくの頭の中に声がひびく。耳をふさぐ。いろんな音がごちゃごちゃになってわんわんと鳴り渡る。頭がおかしくなりそうだった。
「アッちゃん!」
気が狂いそうなうるささを貫いて、ハルちゃんの呼びかけが耳もとで聞こえた。
息が苦しい。呼吸ができない。ぼくは混乱してパニックに陥った。
「アッちゃん、落ち着いて。だいじょうぶ、自分の吐いた息を吸うんだ」
ハルちゃんのカーディガンが、ぼくの頭をすっぽり覆った。
前が見えないことが怖くて、無我夢中でカーディガンを取り除けた。
ハルちゃんは何かを探している。たぶん紙袋の類だろう。整理されたこの場所にはたぶんない。
「アッちゃん、ごめん」
ぼくの唇を、ハルちゃんの口がふさいだ。
長いことずっとそうしていたら、互いの吐息がまじり合い、かよい合った。ぼくの体はどうにか落ち着いた。
すると目からなまあたたかいものが流れて、頬を濡らした。
「ごめんね。ごめん、そういうつもりじゃなかった」
ハルちゃんがおろおろ声で謝った。
「ちが……う、ハルちゃんの、せい、じゃない」
笑わなきゃ。早く。ハルちゃんが悲しむ前に。気まずくなる前に。
ぼくがやれることなんて、そのくらいしかないんだから。せめて、笑おう。
ぼくは、役立たず。ごくつぶし。ひとりじゃ何もできない。面倒をかけるだけ。
誰もぼくを求めてない。誰からも待たれてない。
みんなが追っているのは、もうひとりのぼくの影。