ふるふる図書館


066



 バスルームの前を通ったとき、ナツが、アキの熱を下げるのに使っていた洗面器を片づけた後、薬指に指輪をはめるのが見えた。
「あれ、ナツって指輪していたっけ?」
 僕は意外だった。ナツは装身具に無頓着だったはずだ。宝石や化粧品については、もしかしたら僕の方が詳しいかもしれない。
「あ、うん。ちょっとね」
「隠すことないよ、見せてみて」
 興味をひかれてナツの右手を取った。カボションカットの赤いガラス玉がはめこまれているリングだった。
「ほとんどおもちゃみたいなものさ、ハルが鑑賞するようなものじゃあ」
「ううん、きれいだよ、デザインも可愛いし。よく似合ってる」
「そう? ありがとう」
 少しものうげな返事だ。快活なナツらしくない。
「珍しいね。ナツがアクセサリーをつけているところ、はじめて見た気がする」
 ナツはためらう表情を見せたが、僕のまなざしを避けるみたいに視線を手もとに落としたまま、口をひらいた。
「もらいものなんだ。同じゼミの男子学生からの。クリスマスプレゼントにって」
「え?」
 僕は一瞬息を飲んだ。それから大声を上げた。
「今日って何日だったっけ? もうクリスマスって終わっちゃった?」
「え?」
 おもてを上げたナツも一瞬目をみはった。それから笑い出した。
「やだなハルったら。まだだよ。これは、早めにもらっただけ。休暇に入る前に」
「ああ、そうだっけ。ちょっと立てこんで、日にちの感覚がなくなってた」
 僕も笑顔を浮かべた。
 ささいな齟齬すらもまるでなかったように、おだやかになめらかに会話が続いていく。普段とまったく同じ雰囲気に満たされた、心安いやりとり。
 でも、きっときみは気づいたよね、ナツ。僕のとっさの、下手な演技に。
 僕は、けっして暦を忘れたりしない性分だもの。
 ナツの指輪が、誰かから贈られたものだとわかって、うろたえた。それを隠そうとして打った滑稽きわまる芝居だ。
 そう、ナツが誰と交際しようが、僕にはくちばしをつっこむ権利なんてない。ほんのわずかでも気落ちすることさえ、してはいけないんだから。
 たとえ、ナツが指輪を大事に指にはめていたとしても。僕は何も言えない。何も。
「あはは、なんかさ、窮屈だね。重くて、じゃまで。女は誰でもこういうのをよろこぶと思ってるのかな。わかってないよな」
 ナツは、リングをあっさり薬指から引き抜いて、いとも無造作にポケットにつっこんでしまった。
 そのことばは、本心? それとも……。
 やっぱり、僕は質せない。許されない。正直な態度に出ることも、本音を偽ってみせることもできず、目を逸らして、気持ちを隠して蓋をするばかり。
 そう仕向けたのは、ほかならぬ僕自身だ。自分で選んだことなのだ。

20060527, 20141006
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