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遠くから人だかりが見えて、思わず足を止めた。それは、おれが今まさに向かっているハルのアパート、一階のハルの部屋の前だったから。
のども裂けよとばかりに振り絞られた、悲痛な声もそこから聞こえる。
いったい全体何ごとだと、おれは夢中で駆け寄った。
ひとりの男が部屋から飛び出してきたが、見物人たちにすばやく取り押さえられた。
群をかきわけ、どうにか中の様子を知ることができた。
我を失って泣き叫ぶアキ、アキを後ろから抱きとめているハル。
部屋とアキの服装の乱れようから、何が起こったのかは誰が見ても明白だった。
誰かが通報したのだろう、じきに警官がやってきた。
事情聴取は難航した。
少しの刺激で、アキはおびえて呼吸困難に陥り、発作に見舞われた。
一度過呼吸の発作を起こすとくせになる、とアキをみてくれた看護婦が言っていたが、そのとおりだった。
「おまわりさん、どうしても聞かなくちゃいけないんですかそんなこと」
おれはたまりかねて口をはさんだ。
警官はまごついた顔で頬を掻いた。まだ若い、世間ずれしていなさそうな巡査だ。こんな地方では、そうそう事件に遭遇することもないのだろう。
問われてハルが名乗ると、ますます困惑の度合いを深めた。ハルの名字は、資産家の出自を雄弁に物語っている。この地に密着して生活し、少し年齢を重ねれば無視できなくなるのだ。
地方という特色が活きて、アキに対しての質問も、気遣いのあるものになった。
しかし、もちろんいい面ばかりではない。
せまい土地のことだ、アキのことは、近隣に知れ渡ってしまっただろう。
同性に襲われた若者として、精神の未発達な若者として認識されてしまっただろう。
とうぶん、外出できないかもしれない。
「いいの、ぼく、もうずっとおうちから出ない」
アキはそう言う。外部に心をひらかず、閉じこもってしまっている。
もとのアキへと回復する道は遠ざかったのだ。
「だとすると、僕の婚期も遅れるね」
冗談めかしてハルは言う。
そうだ、アキがこのような状態では、アキについていないといけない。ハルは結婚などできない。
おれがひとり暮らしをして引き取るのはかまわないが、経済的に自立していないとできない相談だ。そうすると働きに出なければならず、アキを家に置いていくことになる。
やはり、ハルに任せるしかないのか。ハルの家なら成人男子ふたり、金銭を稼がなくても生計を立てられるだけの援助はできるのだろうから。
「ナツは悩まないで。僕はうれしいんだ。手助けをいっさい求めなかったアキの役に立てて、世話ができることが幸せなんだから。僕が犠牲になってるなんて、絶対に思わないで」
「ねえハル、おれたちのことを誰も知らない土地で三人で暮らせないかなあ。高校生のとき、三人でそういう話をしたことがあったろ。都会でも、人里離れた鄙でもいい、そんなところに出て行きたいって。
ああごめん、こんなことこぼすつもりなかったのに」
おれはたちまち、自分の失言を悔やんだ。夢物語を口にすればするほど、かなえられない現実が残酷に浮き彫りになる。
ハルはにこりと微笑した。
「そうだね、将来僕たちが独り身のおじいちゃんやおばあちゃんになったら、そうしようか」
おれもつりこまれて笑った。
「じゃあ、おれ絶対に長生きするよ」
はるかに遠い日の話だ。想像もつかないほど。実現できるかもしれないと期待を抱いてしまうほどの。