059
いきなりくずおれてしまったアキの名前を、僕は動転して呼んだ。
「おじゃましていいかしら」
不意に見知らぬ女性が上がりこんできて、アキのわきに屈みこんだ。僕はとっさに、かばうようにアキを抱きこんだ。
彼女はなだめるように、あたたかい笑顔になった。
「びっくりさせてごめんなさいね。わたしは看護婦なの。彼、発作を起こしたのね。心配しないで、ちゃんとよくなるから」
そう言いながら処置をはじめた。
「ハル」
いつからいたのか、頭上からいきなりナツの声が降ってきた。顔を上げると、僕が開け放したままにしていたドアの向こうから群集がこちらを窺っているのが見えた。一連の騒ぎは、周囲の耳目を集めるのに充分だったんだろう。
「さっきの男は、みんなが捕まえてくれたよ。おれも何となく事情はわかった」
ナツが説明してくれた。アキを介抱してくれている女性も、通りすがりのひとだろう。
「ほら、安心して、ちゃんと呼吸できるから。落ち着いて。ゆっくり息を吸うの」
慣れた調子でアキにやさしく言い聞かせている。
ようやく、アキの症状が軽快してきた。
「どうもありがとうございました」
ナツとふたり、女性に頭を下げた。
冷やしたハンカチを額に乗せて目を閉じているアキに視線を落とした。ゆきずりのひとでさえアキを助けることができるのに、僕ときたら。
胸に激しい後悔の波がどっと押し寄せた。
一瞬だけ見せた、深く傷ついたアキの瞳。
アキは、誰にどんなことをされても抵抗しなかった。幼いころは、おとなにかなうわけがないから、子供でも多勢に勝てるわけがないから、そうなのだと思っていた。
だけど、力であらがうことができるほど成長し、無理強いと決していえない状況になっても、アキは相手の欲望に応じて、やりたいほうだいやらせていたのだ。
アキが誘惑している? アキが進んで体を許している?
そう考えたら頭がおかしくなりそうだった。真偽を問えずに、アキの本心がわからずに、ただ悶々とすることしかできなかった。
さっきも、無意識のうちに、エゴイズムむき出しの男の主張を真に受けてしまった。
それが、アキをここまで追いつめたのだ。
僕はアキを裏切った。アキを苦しめたのは、あの男よりも僕なのだ。打擲されるべきは僕だったのだ。
「ごめんね、ごめんね」
アキの手はいつもよりもさらに冷たかった。両手で包んで、頬に押し当てた。
「アッちゃん、ごめんね。僕がいけなかった。ほんとうにごめん」
伝い落ちる涙が、アキの指先をしとどに濡らした。
アキが、動かしにくそうに口をひらいて、たどたどしく言った。
「ハルちゃん……。怒ってない? ぼく、勝手に外に出ちゃった。だからこんなことになっちゃったんだね。ばちが当たったんだ。ごめんなさい。
もう、ハルちゃんの言いつけ、破らない。だからハルちゃん、ぼくを嫌わないで」
「アッちゃんは悪くない。僕こそ、絶対にアッちゃんを傷つけたりしない、信じて」
嫌えるものか。どんなことになっても、僕はアキを疎むことなんかできっこないだろう、けっして。