058
後ろをついて来るようにして、誰かが歩いてるのに気づいていた。近所のひとかな。あいさつしたほうがいいかな。
そう思っている間に、ハルちゃんのアパートに到着した。ぼくは鍵を差しこんで回して、ドアをひらいた。
ハルちゃんはまだ帰ってきていなかったけど、日当たりがよいので室内はぽかぽかとあたたかかった。
後ろ手に扉を閉めようとしたら、手ごたえがあった。振り向くと、どこかのおじさんがドアを押さえている。
「誰ですか? お客さん?」
「忘れたのか、おまえの客だよ」
ぼくの知り合い? ひたすら困惑していると、客を上げないのかとおじさんが聞いた。ハルちゃんには、知らないひとをむやみに部屋に入れてはいけないと言われていたから、どうしたらいいのかわからなかった。
業を煮やしたのか、おじさんはぼくの体を玄関に押しこみ、自分も滑りこんでドアを閉め、鍵をかけた。
びっくりしていると、ぼくの左腕を痛いほどつかんで、部屋の奥に踏みこんだ。
本能的に悟った。このひと、ぼくのことを知っている。ぼくの右腕が利かないのをわかってるから、左腕を拘束している。
おじさんは、ぼくの体を板張りの床に投げ出して、組み敷いてきた。叫ぼうとしたぼくの口を手でふさいだ。噛みついたら頬を張られ、頭を床にぶつけた。目から火花が散った。
大きな手が、ぼくの肌をじかにまさぐった。
この感触はおぼえがある、と直感した。
嘘だ、知らない。きみは誰? ぼくの奥底にいる、きみは誰? 無抵抗で手を受け入れようとするきみは、ぼくなの? ぼくはきみなんか知らない。ぼくから力を取らないで。奪わないで。ぼくの知らないぼくになんかなりたくない。ちがうひとになんかなりたくない。いやだ。怖い。
かたく目をつぶったら、庭からさす木漏れ日がまぶたの裏で弾けて踊った。
こんな光景をどこかで経験した? 夏の夜、きらきらまぶしい光、男のひとの手、息づかい……。
おじさんの指がどこかをかすめ、思わず声が出た。
「おまえはやっぱりここが弱いな。変わってない」
知らない。知らない、知らないっ。助けて、助けて、助けて!
「アキ!」
ハルちゃんだ。おじさんの動きが止まった。
「何してるんですか。アキから離れなさい」
「あんたも、こいつの客かい?」
「アキから離れろと言ってるのが聞こえませんか」
ハルちゃんの声は、押し殺したような怒りに燃えていた。
「生憎だな、兄ちゃん。おれを誘ったのはこいつのほうだがね。街中で秋波を送ってきたんだぜ。だからおれはここまでついて来たんだ。合意の上さ」
ハルちゃんが、息を飲んだようにぼくを見た。
嘘だ。まさか信じたわけじゃないよね?
『あたしの目を盗んで、あたしの男に色目使ってるんじゃないよ。あくどい子だね』
頭の中で声がひびく。
『ことが明るみになると、すべてがぼくのせいになる。堕落したのは、ぼくのせい。気の迷いをおこしたのは、ぼくがたぶらかしたせい。こんなことになったのは、ぼくが誘ったせい。悪魔。魔性。魔物。いるだけで害悪をもたらす。それがぼくだ』
ちがう、ちがう、ちがう!
ぼくは懸命に首をふった。おじさんはしゃべるのをやめない。やめて。もう聞きたくない!
「ほら、こいつも抵抗してなかっただろう?」
ぼくの口から唐突に、獣じみた悲鳴がほとばしった。のしかかっていたおじさんをはねのけた。どこにそんな力があったのかと不思議なくらいの勢いで。
わけのわからないことを絶叫しながら、手近にあった本をつかんでおじさんの脳天めがけて振り下ろした。まわりにあるものを、手当たり次第に投げつけた。
ハルちゃんがぼくの体を抱きとめた。それでもなお、狂ったようにわめきながらぼくは暴れた。
おじさんが、ふらつきながら逃げ出した。ハルちゃんは、ぼくを離して後を追おうとした。
「行かないで! ひとりにしないで!」
ハルちゃんに必死にしがみついた。変だ、うまく声が出ない。ちゃんと呼吸ができない。
力が入らなくて倒れた。まばゆい木漏れ日が降りそそぐのを感じながら。どうしてこんなに、世界はきれいなんだろう、汚れたぼくにも美しい光がこぼれてくるのだろう。