056
ドアからそっとのぞくと、部屋の主はベッドに横たわっていた。
眠っているのかと、僕は足音を忍ばせ、つま先立ちでそっと近づいた。
ぱちりとアキの目がひらいた。
「ハルちゃん?」
「ごめん、起こしちゃった?」
「寝てなかった」
アキはベッドに座った。僕も椅子に腰をおろした。
僕は誰にも内緒でこっそりと、腕が完治せずに入院生活を送っているアキをたびたび見舞っていた。
アキに割りあてられている部屋は個室だった。完全看護らしかったが、いつ訪ねても、アキのほかにひとはいなかった。
持ってきたお菓子をアキに渡し、花束を花瓶に活けた。
「もう、足の怪我は治った?」
アキがそんなことをたずねてきた。僕がうなずくと、見せてほしいと言う。
「ここに上がっていいから」
アキが自分の隣を示した。僕は躊躇したが、結局ベッドに乗り、靴と靴下を脱いで素足になった。
右腕を負傷したアキの惨状に気絶し、ガラス片のちらばったところに足をつっこんでできた傷は、もうすっかり癒えていた。
アキが足裏をじっと見つめるものだから、僕は居心地が悪くてもじもじした。
「きれいだね、やわらかそうだし、傷なんて全然わからない」
つぶやいて、アキは指先でなでた。
僕の体はびくりとした。同時に短く悲鳴が出た。
「やだ、アッちゃん、くすぐったいよ」
身をよじって逃げようとしても、アキは僕の足首を押さえこんで離さなかった。しかつめらしい顔のまま、攻撃の手を休めない。
こそばゆさと、声を必死にこらえるのと、それでも声が出てしまう恥ずかしさとから、僕は呼吸を弾ませ、目尻に涙をため、真っ赤になって突っ伏した。
「もう、やめてアッちゃん、お願い」
息も絶え絶えになって懇願すると、ようやくアキは手をとめた。
「そうか」
「な、何が?」
「ちゃんと感覚があるんだね。ぼくの腕の怪我したとこ、そういうのなくなっちゃったんだよ。触っても叩いてもくすぐってもつねってもわかんない」
「そんな。きちんと治るんでしょ?」
僕が思わず叫ぶと、アキはしんからいぶかしそうに僕を見た。
「どうして、泣きそうになってるの?」
「どうしてって……」
「いいことでしょ。なんにも感じなかったら、面倒なことなくなるもの。それに、それはぼくじゃないってことになるしね」
きみは、きみがなくなってしまって平気なの? そう問いかけたかったが、答えを聞く勇気はなかったから、質すことはできなかった。
後になって僕は思った。すでにアキは、心のどこかが欠落してしまっていたんじゃないかと。なくした感覚とともに。
僕の知らない、はるか高く遠い場所にある崖のふちを、アキはつま先で立って歩いている。バランスを崩せば、アキの体はまっさかさまに谷へと落ちる。アキは怖いと感じることさえできないで、いつも平然としていたけれども、いったん平衡を失ったら取り返しがつかなくなることに気づいていない。
いや、気づいていたとしても、自分にとってはどうでもいいことだと、やはり落ち着きはらっていただろう。
不用意に手をさしのべたら、その小柄な体はあっという間に奈落の底へと飲みこまれてしまうのかもしれない。
それを、僕は無意識のうちにおそれていたのだ。
たとえアキが墜落しようとも抱きとめることができる、そう誇れるほどたくましい腕を持っていればよかったのだ。