055
夜に目がさめ、キッチンに行くとグラスに水を汲んだ。
応接間のほうから声が聞こえる。
こんな時間にお客さまだろうか。不思議に思い、僕はグラスを手にしたまま足を向けた。
そこで、見てしまった。あの惨劇を。
刃物で刺された子供の姿と、血の匂いに、僕は気を失ったようだった。
過保護な母は、一年を通じて、僕に長袖と長ズボンのパジャマを着せていた。
でもそのとき、僕は裸足で、スリッパも履いていなかった。
手から滑り落ち、廊下の床にぶつかって粉々にグラスが砕けた。
意識をなくしてその場に倒れた僕の足裏を、無数のガラス片が切り裂いた。
僕と、腕を怪我したその子は、同じ救急車で病院に運ばれた。双方の親にしてみれば、同乗するのはまっぴらだっただろうけれども。
車内で隣に寝かされたその子の唇は、ぞっとするほど青かった。ひとの顔はこれほどまでに色が変わるのだと恐怖をおぼえた。
大きな病院に着くと、すぐに僕たちは引き離された。
僕の治療に、長い時間はかからなかった。
あの子の安否ばかりが気になった。でも、母にそのことを問えない。
どの部屋に入院しているんだろう。名前さえも知らないから、探しようがない。
何度か通院したが、あの子の行方をさぐることはできなかった。必ず母の付き添いがあったからだ。
そろそろ包帯が取れるころになった。
診察が終わってから、母を待たせてお手洗いに入った。
はっとした。
白い三角巾で右腕を吊った子供に会うたび、あの子じゃないかと顔を凝視する習慣になっていたが、そこにいたのは、まぎれもなく、あの子だったのだ。
しかし、なんて話しかければいいんだろう。
あの子は、きっと僕のことがわからない。どういうふうに自己紹介すればいいのか、当惑した。
あの子は、僕をまっすぐに一瞥し、口をひらいた。僕の鼓動が速まった。
「そこ、どいてくれる? 通れない」
ああ、やっぱり僕のことを知らない。
「ごめんなさい」
しおしおとわきに寄った。あの子は僕の足に目をやった。
「もう、怪我はいいの、チハルちゃん」
「えっ?」
「救急車の中でさ。誰かがぼくに、死なないで死なないでって言って泣いてた。もうあなたは何もしゃべらないでチハルちゃん、って女のひとが怒ってた。きみだったんでしょ」
そうだ、母は救急車の中で、ずっと僕の名を連呼していた。なのにあの子の名は、誰からも呼ばれることがなかった。
「きみはなんていうの? 名前」
「チアキ」
「そう……。チアキちゃん」
口にしながら、僕は安堵感から力が抜けて、座りこみそうになった。
「どうしたの?」
「うれしいんだ。きみが生きてたってわかったから」
怪訝そうなきみに、僕は何度も呼びかけたかった。その名前を。
きみのお母さんが、呼ばなかった分まで。