054
母が僕に手を上げたのは、あとにもさきにもあれっきりだった。
入院しているアキをこっそり見舞っていたことが母に露見してしまったときのことだ。
母は僕を追ってきて、つかまえ、無言で打ち据えた。
病院の廊下で、いい香りのする、繊細な白いレースの手袋をはめた華奢な手が、僕の頬をはげしく叩いた。音にならない音がした。
慣性で僕は顔をそむけた。
痛みとおどろきとかなしみが僕の声を奪った。頬を押さえることもできずに立ち尽くす。
母は、アキのことになると人が変わったようになる。
何も言わないまま僕の腕をひいて外に出て、車に押しこんだ。黒塗りのセダンは静かに発進した。
うつむいたままの僕に、母が声をかけた。
「ごめんなさいね、チハルちゃん。ほっぺがずいぶん腫れてしまったわね。痛いでしょう? ほんとうに悪かったわ」
唇をひらこうとしたら、ひどく疼いてずきずきした。規則正しい血のめぐりが、こんな痛みをもたらすことをはじめて知った。
「でも、わかってちょうだいね。あなたはやさしい子ですもの。どんなときもお母さまの味方でいてくれるわよね」
幾度も語られる繰言。
どうして、どちらかを選ばなくてはいけないの。どちらも選んではいけないの。
心が引き裂かれそうだった。いっそのこと、そうして僕がふたりになれればいい。
母は運転手に車を停めさせた。体をこわばらせて膝を見つめていた僕は、どこなのかもわからなかった。
ほどなく戻った母は、ひとかかえもある包みと一緒だった。
つぶらな瞳の、巨大なくまのぬいぐるみだ。僕がひそかに欲しがっていた。
丸い形の白い襟、茶色いビロードでできたリボンタイ、モスグリーンのギンガムチェックの服を着て、コールテンのズボンをはいた、おしゃれな栗色のくま。
普段だったら、このプレゼントにどんなに狂喜したことだろう。
でもくまの可愛らしさも、僕を慰めてくれなかった。
ふわふわでふかふかしたぬいぐるみを抱きしめて眠りにつくとき、僕はいつも少し泣いた。