ふるふる図書館


053



「ただいま」
 自宅のドアを開けると、クリームシチューと灯油ストーブの匂いがした。テレビの音声も聞こえてくる。母が玉暖簾を揺らして出迎えてくれた。いつもと変わらない風景がそこに広がっていたことが、おれには不思議でしかたなかった。
「遅かったね。ごはんは?」
「食べる」
 なんとか、いつもの表情と声を装う。
 父や兄弟はとうに食事を済ませて寝室や自室にひっこんでいた。シチューを口に運んでいると、母がこちらをじっと観察していた。
 おれは慎重にたずねた。
「何?」
「何ってこともないけど。変わったことでもあったの? チハルくんと」
「え。なんで!」
「ずっと上の空だし。いつもと雰囲気ちがうよ」
「どこが」
「線がやわらかくなったというのかな。頬とかうなじとか」
 おれはあわてて顔を触った。母はそれを肯定と受け取ったらしい。
「やれやれ。おまえはいつもは行きすぎなくらい大胆なのに。こういうことになるとおくてなのか遠慮深いのか。相手の家柄に引け目を感じるような娘に育てたおぼえはないんだけどねえ」
「ちょっと、憶測でもの語らないでよ。だいたい、ハルとは友だちなんだってば。それが両者のためだって、双方合意に達してるんだよ。だから母さんが期待するような展開にはならないの!」
 これ以上四の五の言わせないために、猛スピードでシチューを平らげ、食器を片づけた。
「もうお風呂に入って寝る。おやすみ」

 湯船の中で、湯気にくもる手鏡を見つめた。
 誰かの唇を自分の唇で確かめることなど未経験だった。はじめての相手がハルだったのはまったく後悔していない。ハルもそう思っていてくれていればいいのだけど。
 ふっくらとしてつややかで冷たくて、ほんのわずかに、ぬくめた紅茶の香りがした。
 あのとき、自分はどういう顔をしていたんだろう。ハルに見られただろうか。
 おれは、鏡に向かって静かにまぶたを下ろしてみた。次の瞬間、とてつもなく恥ずかしくなって激しく首をふった。
「ああ、もう何やってるんだろう」
 やっきになって湯をばしゃばしゃと顔に浴びせた。
 ほんの刹那鏡に映った自分が、おとなの女に見えてひどく動揺したのだ。
 母が先ほど言っていたのは、おれが女らしくなったということなのだろうか? 青い果実のような若々しい硬さはもう消えてなくなるというのか?
 ごめんハル、おれはやっぱり変わってしまう。子供のままでいるのはどうしてもむずかしいよ。
 ただ一度の軽い口づけだけで変化の予兆があらわれるなんて。この先、いったい自分はどうなってしまうんだろう?

 自分の部屋に入り、鞄からノートを出して広げた。
 大学の講義で学んだことをさらいながらまとめていく。
 おれが出席した講義の内容をノートに写して、ハルに持っていく。ハルが休学してからずっと続けていることだった。
 子供のときはハルにノートを借りることが多かった。授業でうっかり聞き逃したり、宿題を忘れたり、そんなときにいつもハルは快く見せてくれた。
 ハルのノートはいつもほんとうにわかりやすかった。しかし逆の立場になった今、ようやくわかった。ハルは、おれのためにそんなふうに丁寧に書きこんでくれていたんだって。
 おれも、ハルのためにノートに字をつづる。気持ちをこめて鉛筆を動かす。
 ハルが好きだ。だから、ハルのためにできることをする。それだけ。ただそれだけではいけない?
 友だちとしてだとか、そうではないとか、家柄だとか、結婚だとか、男だとか女だとか、実は重要じゃないのに。そんなものは一切関係ないところでつながっていたいのに。

20060519, 20141006
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