ふるふる図書館


052



 家路につきながら、ハルとはじめて会話したときのことを思い出していた。
 日曜日の昼下がりのことだ。
 下の弟が産まれるのを、おれは病院の廊下で待っていた。
 母のいる部屋の扉はなかなかひらかなくて、すっかり退屈したおれは、祖母や父や兄の目を盗んでこっそり抜け出し、病院の中を探検しはじめた。
 外来の受付が並ぶ廊下の角で、出会い頭にひとりの男の子とぶつかりそうになった。
「ごめんなさい。だいじょうぶ?」
 花束を抱えて息を切らせていた男の子が、ハルだった。同じ年ごろで、ハルを知らない子供は町内にいなかった。
 ハルはあたりを見回し、おれに花束を押しつけた。早口で言う。
「ねえきみ、今時間ある? 僕のかわりにこれを友だちの男の子に渡してほしいの。僕はもうお見舞いに来れなくなるから、その子に謝っておいて」
「自分で渡さないの?」
「僕は今、追われてるんだよ」
 ハルは大真面目だった。
「誰に?」
「お母さま」
 答えながらはっとして、壁のくぼみに身をひそめた。きれいな女のひとが通りすぎた。花の飾りのついた帽子をかぶり手袋をはめた貴婦人のような身なりだ。ハルの母親だとおれはぴんときた。
 悪さをして、しょっちゅう母から逃げ回っていたおれは、そのスリルを思い出してにわかにはりきった。
「よし、一緒に行こうその子のところに。つかまらないでさ」
 おれはささやいて、右手に花を持ち、左手でハルの手をひいた。おどろきながらも、ハルは素直に手をとられ、おれとともに駆け出した。
 逃避行は成功しなかった。いよいよ見つかるというときになり、ハルはかたく握っていた手を離した。
 花の贈り先である男の子の病室の番号を告げ、「ここまでありがとう。早くお花を持って行って」と懇願した。見つかったら、きっと贈りものを取り上げられるのだ。おれはうなずいて走り出した。
 死角に入ったところで足を止め、物陰からそっとのぞいた。
 ハルの腕をつかんだあの女のひとが見えた。女のひとの白いレースの手袋が宙にひらめき、ハルの頬を打った。ぶたれた肌が、みるみるうちに赤く腫れていく。
 見てはいけないものを見てしまった後味の悪さできびすを返し、ハルに指定された病室に向かった。
 ハルは、お金持ちの家でぬくぬくとした暮らしをしているのかと思っていた。ぬるま湯に浸かったような生活をしているのではないとわかって、おれは衝撃を受けた。友だちの見舞いにすら、自由に行けないだなんて。

 ハルをかばうように目的地へ進んでいたとき、ほんのわずかな間だったけれど、可憐なお姫さまを守る勇敢な騎士にでもなったような気分だった。
 出会いからして、すでにそういう心を抱いていたんだ。ハルに。
 今さらそう気づく。
 電車はすいていたが、席に座る気持ちになれず、立ったまま窓ガラスをじっと見つめた。
 目の前には、憂いを帯びた自分の顔が映し出されていた。自分によく似た、見慣れない他人だった。

20060519, 20141006
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