042
「ナッちゃんが泊まっていってくれたらうれしいなあ」
ハルの部屋を訪れ、遅くなるまでアキと遊んでいたら、そう言われた。
何かをねだったり希望を口に出したりするとき、アキはいつも遠慮がちだ。顔をうつむけ、でも瞳だけはおれの方をすがるようにじっと見つめていて、拒まれるのを恐れるように頼りなげに、はかなげに揺れている。
こんな表情をされて、むげに断れるはずもない。
「でもさ、ふとんがひとつしかないし、ベッドもひとつしかないだろ。風邪ひいちゃうよ」
「ぼく、ハルちゃんと同じおふとんで寝るから。よくそうしてもらってるの」
おれの視線を受けて、ハルは耳まで赤く染めた。
「ふたりで寝てるの?」
「え、ええと」
しどろもどろなハルに代わって、アキが屈託なく答える。
「うん。ふたりでベッドに入ると、落っこちちゃうでしょ。だから、おふとんなの。ナッちゃんがベッド使えばいいでしょ。ね?
だめ? ハルちゃん」
「いや、僕は、かまわないけど。ナツ、どうする?」
ハルがあまりにうろたえるので、おれまで何だか落ち着かなくなってしまった。
「おれも平気だよ。明日の講義、午後からだし」
「決まりだね。わあい」
アキだけがひとり無邪気に、手放しで喜びをあらわにした。きらきらと目を輝かせて。
夜中に目がさめた。ランプの弱々しい光に満たされた部屋に、小さな泣き声が響いている。
「アッちゃん、どうしたの?」
ハルがあやすように、上半身を起こしたアキの背中をたたいていた。
「腕……腕が取れちゃう」
「だいじょうぶ、悪い夢だよ」
ハルが、低くささやいた。
「そうだよ、ハルちゃんの言う通りだよ、アッちゃん。ほら、腕、何ともなってないよ」
おれは、アキのそばに寄り、右腕をさすった。
「うん。ごめんね、ハルちゃん、ナッちゃん。起こしちゃったね。泣き虫だよね、ぼく」
しゃくり上げていたアキがようやく寝ついた。
ハルとおれはテーブルの前で、冷えた体をあたためようとブランデーをたらしたミルクを口にしていた。
ハルがぽつりとつぶやいた。
「ナツが泊まってくれて、今夜はいやな夢を見ないですむと思ったんだけどな」
「寝る前は、あんなに楽しそうにはしゃいでいたのに」
「表面上はふつうに生活しているけど、包丁を見るとおびえるんだ、アキは。傷がまだ癒えてないって思い知らされる。
アキは、どれだけ大きな闇を抱えているんだろう。記憶を取り戻したら、いったいどうなるんだろう」
窓からさす月の光が、ハルの目にうっすらとたまった涙を光らせた。
明るいと思ったら、満月だった。月の輪がハルの頭部を照らしていて、やや褐色を帯びた髪に、輝く輪をかけていた。
無意識のうちに、その頭を抱き寄せた。
「だけど、アキにとっていちばんの心のよりどころはハルだよ。無力感にさいなまれる必要なんてない。おれなんて、全然力になれなくて」
「ううん、ちがうよ。アキはナツが大好きだもの。それに僕は、ずっと、ナツみたいになりたかったんだもの。前にも、そう言わなかったっけ。きみにあこがれてるって」
こんなにまっすぐに言葉をつむぐなんて、きっとハルはまた酔っているんだと思った。おれは素面のはずなのに、つられたのか勝手に口から素直な台詞がこぼれ落ちた。
「おれも、ハルにあこがれてるよ。子供のときから。やさしくて、こまやかで、繊細で」
「ほんとう?」
「うん。ほんと」
アキと三人だからこそ、バランスをとっていられる関係。誰かがひとり抜けても成立しない間柄。三人で輪になって、思慕はその輪をぐるぐるとめぐっている。どこにも着地することなく、途切れることなく。
「ありがとう。やっぱり、ナツがいてくれてよかったよ」
前に同じことを言われたときは苦しくなったのに、今度は不思議とおだやかな気持ちでハルの声を受け止めていた。