ふるふる図書館


035



 アキがバスルームに行ってしまい、ひとりになった僕の口からためいきがもれた。
 退院後のアキを、自分のアパートにひきとると言い出したのは僕だ。ナツの家には負担になるだろうから。
 僕と同居すると聞かされたときのアキは、心細そうだった。
 僕を警戒しているのだろうか。心をひらいていないのだろうか。
 それはそうだろう。自分が何者かもわからないのに、何者かわからない人間と一緒に生活するだなんて、混乱するなというほうが無理だ。
「ハルちゃんはやさしいお兄ちゃんだから、全然心配いらないよ」
 ナツが笑って、アキの髪をくしゃっとなでた。弟がいるだけあって、小さい子供の扱いに長けている。
「ナッちゃんは? 一緒に住んでないの?」
「うん。ナッちゃんは別のところにおうちがあるんだ」
「そっか」
 ちょっぴりがっかりしたアキに、僕も内心がっかりしてしまった。
 アキは、ナツのほうにはなついているようだ。ナツの屈託のなさ、おおらかさを見ればおおいに納得いくことではある。だけど、自分の不甲斐なさがかなしくなる。
 それでも、アキと暮らすという決意をひるがえすつもりは、さらさらない。
 僕は、アキが幼かったころのことを思い出そうとする。でも外見も声も変わらず二十歳のアキで、僕もアキ以上に困惑してしまう。
 いけない、こんなことでは。

 バスルームから、悲鳴が上がった。
「ハルちゃん!」
 アキが叫んでいる。僕は肝が冷える思いで、アキのもとへと飛んでいった。
 湯船に浸かっているアキの姿が見えない。
 真っ暗だった。
 突然、電球が切れてしまったのだ。そういえば、前々からちかちかしていたような気がする。アキの失踪騒ぎで、電球どころじゃなかった。
「ごめんね、アッちゃん。今電球切らしてるんだ。かわりにろうそくを持ってくるから、ちょっと待ってて」
「うん」
 アキの声がふるえている。
 停電用のろうそくを、急いで探した。倒れてアキがやけどをしないように、手ごろな空き缶の中に入れた。
 ろうそくの灯は弱すぎる。炎がかすかに揺れるたび、影が大きく揺らぐ。アキは泣き出しそうな顔をしている。
 脱衣所の電灯をつけておいても薄暗い。ドアを開け放しておけば明るくはなるが寒い。そろそろ冬なのだ。アキが風邪をひいてしまう。
 しかたない。
「アッちゃん、僕も一緒に入るよ。そうすれば、怖くない?」
「うん」
 ほっとしたように、アキがうなずいた。

 とはいえ、バスルームはせまい。成人男子ふたりにはきつい。
 アキは無邪気にうれしそうにしているが、僕は照れくさい。
 ろうそくの明かりがあえかなことに、ひそかに感謝した。
 アキの髪を洗い、背中を流す。素直に身をまかせるアキは、どうやら僕を嫌っていないようだ。僕の胸はあたたかくなった。と同時に、ちくんと痛みもしたけれども。
 ふたりで風呂から上がって、パジャマを着た。透きとおるような白い頬をピンク色に染めているアキを見ていたらいとおしくなって、気づくとその体に腕を回していた。
 ずっと抱きしめたいと思っていた。深すぎ、大きすぎる傷と苦痛にひとりで耐えているアキを。でも、僕がそうしてはいけないとも思っていた。
 今、どうして僕はアキを抱きしめているんだろう。胸の中の、あたたかさと痛みと後ろめたさと幸福感ごと。

20060502, 20141006
PREV
NEXT
INDEX

↑ PAGE TOP