ふるふる図書館


033



 アキは、崖の下に転落して意識をなくしているところを、地元の人間に発見されて、この病院に担ぎこまれた。それから一週間も昏睡していたという。
 アキがもとどおりの心と記憶を取り戻せるかどうかはわからない。
 頭の打ちどころが悪かったらしい。
 それ以外はまったく別状なく、早いうちに退院もできるとのことだった。
「治療費だけどさ」
 相変わらず人気のない待合室に出ると、おれは重い口をひらいた。
「アキ、保険証あるのかな」
「わからない」
 ハルは少し考えたあとに言った。
「お金は、僕がなんとかするよ」
「なんとかって」
「父にかけあってみる」
 唇を真一文字に引き結んだハルを見て、悟らざるをえなかった。やっぱりハルは、父親と折り合いが悪いのだと。
「だけどハル」
 懸念しているおれに、ハルは微笑を返した、弱々しかったけれど。
「だいじょうぶ、父にとってアキは実の子供なんだから。それに、話をするのは、父と僕の問題だ。ナツは心配しないで」
 決心が鈍らないうちにと、ハルはその足でロビーに置かれた公衆電話へと向かった。おれは、親子の会話が聞こえないよう、離れた長いすに腰かけて待っていた。
 ずいぶん長い時間が経過したような気がした。
 ハルが戻ってきた。顔色が青ざめている。たぶん、アキの症状を聞かされたときよりも。
 おれの隣に力なく座った。
「父に話したよ。反対された。もうこれ以上、アキのためにお金は出せないって。
 ほんとうは、アキは父の子じゃないんだって。アキのお母さんに脅されていたから、世間体をはばかって出資していたんだって。もうアキのお母さんは死んじゃったから一銭も払わないって。
 アキのことを、僕は弟だと思ってたのにちがってた。でもいいんだ、僕には家族なんてもういらないもの」
 あたたかい家庭で育ったおれは、ハルが語る内容に悲痛な思いがした。
 万事控えめで慎ましやかなハルが、堰を切ったようにしゃべり出した。
「そうだよ、お金で解決しようとしたのがまちがってたんだ。アキがお母さんに殺されかけた時点で、お母さんは罪を背負うべきだったんだ。そそのかした僕の母も。
 父がお金で醜聞をもみ消したのは、世間体のためだ。そんなことしなければ、アキはもっとちがう人生を送れたかもしれないのに」
 ハルは、おとなたちを責める口ぶりで、自分を責めているようだった。子供にすぎない、何の力もない自分を。
 おれはハルの手をそっと握った。
「どうすればいいのかなんて、おれにも、ハルにも、わからなかったんだ。だからそんなに苦しまないで」
「僕は、父と取引をしたよ。父の事業を継ぐことにした。経営も立て直す。そのかわりに、アキの金銭面の援助をしろってね。僕への投資として。
 きっと卒業したら、絵筆を握ることもなしに、仕事に没頭するんだ。それを父はずっと望んでた。父のためでもあるし、アキのためでもあるし、僕のためでもあるんだ。こんな卑劣な手段でしか、アキを救えない僕のため。
 どこかの女のひとと政略結婚して、まわりに言われるまま子供を作って、でも家庭をかえりみずに仕事ばかりしている、つまらないおとなになるんだよ僕は。
 でもこれは僕が選んだ道だ。財力と権力があれば、アキのことを守っていける」
 そんなハルの姿を、おれもアキも望んでないということばは、飲みこまずにいられなかった。ハルだってわかりきってるはずだから。それでも迷いやためらいのないまなざしをしているから。
「おれも、アキのために何かしたい。ハルひとりで背負いこんじゃだめだよ。お金のことだって」
 そんなことを言うのが精一杯だった。
 三人の関係は、お互いを思えば思うほどすれ違ってしまう。
 どうしてこんなにねじれてばかりいるのか。ゆがんでしまっているのか。誰も犠牲になることなく、三人が一緒に幸せになる道はないのだろうか。

20060426, 20141006
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