028
やまんばが死んだ。
最期まで、他者を喰らって逝った。
部屋を清め、警察の事情聴取も一段落つき、私は自宅でぼうっとしていた。
これからひとりだ。
預金通帳を見つけた。多額の金銭がまだ残っていることがわかったから、生活はしていけるだろうと、なんとなく考えた。
やまんばがいなくなったから、もしかしたらもうお金をもらえなくなるんじゃないだろうか。
私は実の父からすら呪われている子供だ。忌まわしく、疎ましく思われている子供だ。
やまんばは私を殺そうとしたが、のみならずいろいろひどいめにあわせもしたが、とりあえず捨てることまではせずに一緒に生活してきた。たとえ、私が金の卵で、私の養育費として大金を受け取っているから手放したくないと思っていたにせよ。
だが、それも過去になってしまった。
がらんとした部屋の、しんとした空気を、そっと私のつぶやきがふるわせた。
「お母さん」
自分の声を耳にしたら、いきなり胸が苦しくなって、目の裏が痛んだ。視界がおかしなゆがみを生じた。何の前触れもなしに、頬に濡れた感覚をおぼえた。
涙だった。
きっと、あまりに苦しくて痛くて、それで流れたんだろう。生理的なものだ。
苦しみと痛みがやわらげば、自然にやむだろうと思った。
それなのに、あとからあとからとめどなく涙があふれて、ぼろぼろとこぼれ落ちた。とまらなかった。どこに隠れていたのだろうと不思議なほど。
経験したことがなくて、どうすればとめられるのか、ちっともわからなかった。
まるで、自分の体が自分のものでない気がした。
急にわかった。これは泣くという行為だ。
悟ったら、ますます涙が出た。
はじめて、みずから感情の波に身をまかせ、のまれて、おぼれた。
私は抱えた膝に顔を埋めて、ただひたすら嗚咽した。声も涙も枯れてなくなるまで。
いや、とっくに私はがらんどうだったんだ。私の姿かたちをした醜い汚泥、その中身は何にもない、ただの虚無だったんだ。空(うつ)ろ、空っぽ。
悲しみも憎しみも苦しみも、悔しさも愛しさも淋しさも、恨みも痛みも悩みも妬みも、嘆きも怒りも怯えも憂いも、歓喜も希望も期待も意欲も憐憫も、羞恥心も恐怖心も、罪悪感も嫌悪感も屈辱感も、みんなみんな、喰われてしまった。
否、ひょっとしたら少しは残っていたのかもしれない。でも、ひそやかに芽吹き、息づいてあえいでいたそれらは、私自身が摘み取った。
そうしないと、私は壊れていたんだろう。
だけど、ぽっかりとした一個の空(うろ)にすぎない私が、壊れていないまともでまっとうな人間だなんて誰が言えるだろう。
ああ、私の名前は、今この瞬間のためにつけられてたんだ。
そう思ったら今度はおかしくなって、声を上げて笑った。
夕闇に閉ざされた部屋の床にころがって、ずっとずっと、笑った。
やまんばの親戚の所在地らしい住所が、遺品から出てきた。
ここに行ってみようと思い立った。
やまんばから、親類縁者のことをまったく聞いたことがなかった。私が足を運んでも、つれなく追い返されるかもしれない。そんな女は縁を切ったと言われて放り出されるかもしれない。ただ相手の憎しみをかきたて、つのらせる結果に終わるかもしれない。
しかし、やまんばの死を知らせないといけない。それに、やまんばの足跡をたどれば、私がやまんばにならない方法が少しでもつかめるのではないか。
地図を広げた。ずいぶん遠くて、ずいぶん山奥だった。宿も電車もなさそうな。
旅の支度をはじめた。
すぐさま終了するほど、荷物は少なかった。
そのときは、わからなかった。ハルとナツの連絡先のメモをその中に含めた理由が。