ふるふる図書館


027



「アキ!」
 ハルは名前を呼んで、床に座ったままぼんやりとしたまなざしを向けるアキに歩み寄った。
 アキの母親の訃報をハルとおれが耳にしたのは、葬儀も終わってからだった。
 はじめて入ったアキの家。ハルもおれも、ここに来ることをアキにずっと禁じられていたが、アキはおれたちの来訪を咎めなかった。
 廃屋まがいの住居はひどく殺風景で、がらんとしていて、侘びしくて、生活の匂いがしなかった。こんなところで寝起きしていたのか、アキは、二十年も。
「人喰いやまんば、死んじゃった」
 秋の真っ赤な夕日に横顔を照らされたアキは、歌うような節をつけて淡々と言った。
 アキは、幼いころから自分の母親のことを「人喰いやまんば」と言っていた。大学生になった今に至るまで消えない右腕の傷を、「人喰いやまんばに食いちぎられた」と説明していた。
 それが、母親に刺殺されかけた際の傷跡だと知ったときには、なぜアキが実の親を人喰いやまんば呼ばわりするのかわかったと思った。
 しかし、「人喰い」だなんておだやかでない名称だ。遺影で確かめるかぎり、アキによく似た美しい面立ちなのに。おとなびて利発なアキがどうしてそんな子供じみた仇名を使うのだろう。ほんとうに人間を喰っていたわけでもあるまいに。
 そこまで考えが及んだとき、おれの背筋を冷たいものがすうっとくだっていった。
 もしほんとうに喰っていたのなら。
 喰われていたのは、アキ?
 おれはアキの手を握りしめた。ふるえを隠すためだったかもしれない。
「アキ、よかったらうちで暮らす? ちょっと狭いけどさ、なんとかなるよ。母さんだって賛成してくれる」
「僕のアパートでもいいよ。ふたりでも充分に広いから。アキが来てくれたらうれしい」
 おれに次いで、ハルも控えめに提案した。
 アキはどちらにも応えなかった。
「ふたりとも、やまんばの死因、聞いた?」
 問いかけに、おれたちはうなずくしかなかった。
 無理心中だ。アキの母親は、相手の男の命を刃物で奪い、みずからも後を追った。この部屋で。
 見たところ、むごたらしい事件の跡形はすでに消え去っていた。
「あいつ、今度は失敗しなかった。前とちがって準備もしていた」
 前というのは、アキのときのことだろう。
「遺書があったよ。ふたりだけの世界に旅立ちますって書いてあった。きれいごとで飾ったって、やることに変わりはないのにね。殺人と自殺。
 罪を犯しておきながら、裁かれることも償うこともしやしない」
 アキはやっぱり他人事のように語り、ふふっと笑ってつけくわえた。
「私があのときちゃんと死んでいたら、同じく旅立ちとして美化されてたのかな」
 アキは、唐突に話題を変え、旅に出ると告げた。
 話の流れが流れだけに、おれはどきりとした。おれもハルもついて行くと主張したが、アキの謝絶にあった。
「ふたりとも、学校に行かないとだめだよ」
「そんなに長いの?」
「わからない。やまんばに親戚がいるらしいことがわかったんだ。会ってこようと思う」
 とりあえず、目的があることはわかったが、それでもおちおちできなかった。
「もちろん帰って来るよね?」
 おれは思わず詰め寄った。アキはただ微笑んだ。

 しかし、アキの行方は、それきり杳として知れなくなったのだった。
 休学届はハルが出しておいた。
 アキの学費はすでに全額払いこまれていた。ハルの父親は、相当多額の金銭をアキとアキの母親に支払っていたのだとハルから知らされた。
 アキの母親があのような暮らしをしていたのは、あてつけか、アキへのいやがらせだったらしい。
 住人をなくした家に、ハルとおれは何度も足を運んだ。
 おれはかつて、「アキと友だちになるまで、この家に入らない」と宣言した。見世物に向ける目でアキを見ている同級生たちと同じだと思われたくなかったから。なのに結局、おれが敷居をまたぐのを許されたのは、十年以上もたってからだった。
 アキにとって、おれは友だちじゃなかったのだろうか。
「もっと言えばよかった。ちゃんとここに戻ってきてって。アキは大事なひとだって」
 ハルは悔やんで、己を責め続けている。
 アキは頭がいいくせに、自分の価値を正当に評価することはできていなかった。いくらことばを尽くしても、理解しようとしてくれなかった。
 アキ、いったいどこにいるの。
 ことばで納得してくれないのなら、たくさん抱きしめる。だから、もう一度顔を見せて。

20060418, 20141006
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