026
二十歳の誕生日に、ハルのアパートに招待された。
ナツとふたりで出向くと、ハルが腕をふるった料理をテーブルに並べていた。
「わあ、すごいごちそうだね」
「はりきって作ったんだ。ちょっと多かったかな」
ナツの称賛に、ハルが照れくさそうに笑う。
赤ワインで乾杯することになった。
掲げたグラスをぶつけ合うと、赤い液体が揺らめいた。
私の血と比べるべくもないほどきれいな赤。
包丁で刺されたとき、たくさんの血が私の体から流れていった。その現場を覗き見て失神したハルが怪我をし、救急車が呼ばれたから、私は失血死をまぬがれた。私の命を救ったのはハル。
ナツと私はいとまを乞う時刻になった。
秋の日は落ちるのが早く、薄暮の街中を私たちは歩いた。
私たちを見て、道行く酔漢たちがひやかした。ナツが軽く眉をひそめてささやいた。
「くだらない。気にするだけ損だよ」
「姉ちゃん、そんな弱そうな優男なんかやめとけって。おれたちとどうだ?」
酔漢たちの下卑た野次と下品なせせら笑いが続く。
ナツが侮辱された。
そう認識した瞬間、私の顔面からすっと血の気がひいたのがわかった。
なんだろうこの感じは、といぶかる間もなく、私の足はつかつかと男たちの方に向かっていた。私の知らない何かが、私を勝手に動かし、操っていた。
「なんだ、小僧、やるのか?」
嘲弄が浴びせられた。私はひややかに彼らを眺めた。彼らがたじろいだように後ずさりし、その分一歩距離を詰めたとき、ナツが私の袖をひいた。
「いいから、ね、帰ろう」
はっと我に返ってナツを振り返った。ナツが目をみはった。
「どうしたの、アキ、真っ青だよ! 具合悪いの?」
首をふる私の腕を、ナツがひっぱった。
「とにかくハルの家まで戻ろう、だいじょうぶ? 歩ける?」
おぼつかない足取りで、ナツに支えられるようにして、ハルのアパートへと引き返す。私はふと疑問が氷解し、かすれた声でつぶやいた。
「怒ったんだ」
「え?」
「ナツもハルも、怒るとき、顔を真っ赤にするから、そういうものだと思ってた。そうか、私は怒ったんだ。今やっとわかった。はじめてだったからなんだろうって不思議だった」
「アキ……」
ナツは絶句した。私の鈍さに、あきれたのにちがいない。
呼び鈴の音に扉をあけたハルも、私の様子に狼狽した。私は手洗いを借りて、そこで嘔吐した。
ハルの心づくしの料理が、私から出て行く。涙が浮かんだ。
指をのどの奥に入れて、さらにえずいた。胃液しか出てこない。体内にたまったもっともっと汚いものは、やっぱり出ていかない。
「アキ、どうしたの? お酒で気分が悪くなったの? 僕の料理がいけなかった?」
おろおろとたずねるハルの声と、事情を説明するナツの声が聞こえた。
私を産んだ女の胎内にいたとき、私はその女の一部だった。その女と一体だった。胎盤を通じて、その女とすべてのものを共有していた。私はその女、やまんばそのものだった。
二十年前の今日、へその緒を断ち切られ、やまんばと別の存在になった。
なのに、あの事件で大量の輸血が必要になり、私の体内にはやまんばの血液がおびただしく注ぎこまれたのだ。
私の体は結局のところ、人喰いやまんばの体なのだ。喰うほうでなく、喰われる側を選んだとしても。
やまんばの素を吐き出さなくてはいけないのに、いつやまんばになるかわからない私の意識を、しっかり私につなぎとめておかなくてはいけないのに、我を忘れたらいけないのに、何かに心を奪われてはいけないのに、夢中になったらいけないのに。
怒りにとらわれてしまった。自分を制御できなかった。
手足がふるえて、しびれて、力が入らなくなる。呼吸が荒くなる。気持ち悪い。自分の体が、存在が、気持ち悪い。
「落ち着いた?」
手洗いから出ると、ハルがそっと水の入ったコップを渡してくれた。飲み終えると、ナツが私の手をこすり、背中をさすってくれた。
「ふたりともごめんね、迷惑かけて」
「ううん、うれしかったよ」
ナツが思いがけないことを言った。
「アキがおれのために怒ってくれたから。しかも、今まで怒ったことがなかったんだろ。ということは、新しいアキが生まれたってことだよね。これってすばらしいことじゃない?」
「そうだね、もう一度お祝いしなくちゃね」
ハルがふんわりと微笑んだ。
「ごめんハル、ハルの料理を……」
「きみに僕の料理を食べてもらえて、今日はほんとうに楽しかった。またいつでも、食べにおいでね、アキ」
これは、幸福なこと? 不幸なこと? 私にはわからなかった。
私は、こうしてやまんばになっていくのに。