025
「死んでおしまいなさい」と包丁をさしだしたのは、僕の母。
その柄を握りしめたのは、アキの母。
凶刃は、アキの心臓ではなく右腕に突き刺さった。
手術の結果、腕は体に残された。
障害として残された後遺症と、一生消えない傷跡とともに。
親に殺されかけたトラウマも、おそらく。
そのせいかわからないが、アキは、自分の体を実に無造作に、ぞんざいに扱う。
昔は、誰にでも触れるのを許していた。大学生になった今は、そんなことはないと僕は信じている。
だが、僕にデッサンのモデルを頼まれたアキは、ためらいなどみじんも見せずに、身にまとっていたものをすべて脱ぎ捨てようとした。
ああ、僕はアキによこしまな気持ちを抱いた人たちと同類なのか。羞恥が僕の顔を赤く染め、上半身だけでいいと制止させた。
アトリエを兼ねて借りているアパートは、窓から光がいっぱいにさしてあたたかく、しばらくたつとアキはうたた寝をはじめた。
僕は黙々と鉛筆を走らせた。
しなやかな体を僕の目に惜しげもなくさらして、身じろぎひとつせずに眠りこむアキ。
こんな無防備な姿を、寝顔を、はたしてほかの誰が見ることができただろうか?
この空間と時間すべてをまるごと取っておきたかった。
アキの髪のひとすじひとすじ、まつげの一本一本、目もとの小さなほくろまでことごとく、忠実にスケッチブックに写し取りたかった。
そう、僕は、アキの全身をくまなく愛撫していたのだ、6Bの鉛筆で。無心に。
もちろんほんもののアキに比べれば、僕の絵などごみ同然だけれども。
日ざしが傾き、アキを起こさなくてはいけなくなった。その刻限がくるのを、どんなに恐れたことだろう。
アキ、と呼んでもまぶたをひらく気配がなかった。アキはどんなときでも、人前で自分をなくすことがない。よほど熟睡してしまったのだろう。
禁忌を破り、神々しい何かを見てしまった気がして、アキの前にひざまずいた。
「起きて。アッちゃん」
すやすやと安らかに眠る顔があどけなく、つい、子供のときのように声をかけた。ほんとうは起きてほしくない、いつまでもこのまま、アキのことを眺めていたい。
美しいアキに不似合いな、腕の傷跡に、そっと指先を這わせた。
アキに触れたら、僕は、アキに劣情で接していた人々と同じになってしまう。
でも。僕との出会いのよすがである、この傷跡なら、いとおしんでもよいだろうか?
誰よりも、この傷を慈しんだら、彼らとちがうものになれるだろうか?
気づくと、吸い寄せられるように、僕はアキの傷跡に口づけをしていた。
目がさめた直後だというのに、アキはいつもと変わらない静謐で明晰な声で、絵は描けたのかたずねた。
失敗したからと僕は頬を上気させて言い訳し、隠しとおした。
見せられるわけがない。あんなに執着のこもった、いやしい、浅ましい絵など。
しかしきっと捨てることなく、一生大切にするだろう。おりふしに取り出して、熱烈に見つめ、アキの体を指でなでさすりもするだろう。
アキ、きみは軽蔑するだろうね。こんなにも下劣な、さもしい人間なんだよ、僕は。