023
大学進学と同時に、実家を出て部屋を借りた。
ナツが面食らったくらい、古めかしいアパートだ。アトリエとして使えるほど広くて明るいのに、家賃は格安。
アキはめったに顔を出さなかった。招かないかぎり、訪れてこない。
きっとアキはまたつまらないことを考えている。
ぼんぼん育ちのハルがこんなところに住んでいるのは、自分が原因なのだと。疫病神だと自責の念を抱いているのだ。
アキの治療費、養育費、生活費、慰謝料、そういった出費がかなりの額にのぼったことは、今の僕には想像がつく。悪いことに、父は新しく着手した事業に失敗した。わが家の財政は大きくかたむいた。落ちぶれたといってもいいくらいにまで。
僕は、はなから父の跡を継ぐ気はなかった。絵を描いている方が性に合う。事業や経営などにはまるで興味が持てなかった。
父の財産は、アキが受けるべきなのだ。父の血をひく唯一の子供であるアキが。僕は、父の再婚相手の連れ子にすぎない。
しかし、認知されていないアキが父の家を継ぐことはできない。アキだって望んでいないだろう。
だから、こうしたかたちになってしまったにせよ、アキにお金が流れたこと自体は当然なのだと思う。アキが気に病むことじゃない。
もしもアキが「私のせいでハルの家が零落した」と謝ってきたら、そう説明しようとずっと僕は決めている。でもアキはそうしないだろう。
「私がそんなことを口にすれば、ハルは懸命になだめ、慰めてくるだろう。ハルに気を遣わせてしまってはいけない」、そんなふうに考えている。アキは、そういう性格だ。
アキの心の重荷を、ひとつでも取り除きたいのに。
ああ、僕は、アキがそういうふうに頭を下げてくるのを期待しているみたいじゃないか。
ちがう、アキが詫びることなんかまるっきりないんだ。そんなこと、そもそもアキに声に出させたくない。
僕はディレンマに陥り、疲れて、ためいきをつく。終わりの見えない迷路をぐるぐるとさすらうばかりだ。
飲みかけの缶ビールをあおって空にした。ひとりの夜におぼえたアルコールは、ひとりの夜にばかり飲む。頭がぼんやりとしてきて、思考に終止符を打てるはずなのに、かえって、気持ちばかりがとめどなくあふれる。
眠気におそわれ、ひやりとした床に寝そべると、窓から月が見えた。
ねえアキ、この部屋ってひとりだと、すごく広いんだ。
アキが来ても、ナツと三人でいても平気なように、大きな部屋を探したんだよ。
きみに食べてもらえるように、料理だっておぼえたし、食器もそろえた。
もう大学生なんだし、きみはきみの家族にも、僕の家族にも遠慮なんかすることなしに、ここに来れるはずなんだ。
来てほしいんだ。
この気持ちは、僕のわがままなの?
こんな晩はいつも、途方もなく広い迷路に足を踏み入れてしまう。
どうすれば、僕に歩み寄ってきてくれるの?
きみの心は、見えているのに遠くて、けっして手に取れないあの月と同じなの?
誰も触れることのできない、清冽な月に似たアキ。
きみと手をつなぐことができたら、この迷路から抜け出すことができるのに。
いや、もしかしたら出口なんていらない。きみとなら、さまよい歩いていてさえ幸福にちがいないのだから。