022
高校を卒業したハルは、アパートを借りてひとり暮らしをはじめた。
母親がよく許したものだと意外だったが、お坊ちゃん育ちには似つかわしくない、古びた住まいを見て、おれはもっとおどろいた。
ハルの実家の経済状況は、それほどまでに逼迫していたのだろうか。それで美大にも進学しなかったんだろうか、ハルはそちらをめざすと思っていたのに。
終電を逃すと、いつでもハルはこころよく泊めてくれた。
いつからか、それに慣れ、好意に甘えてしまっていたのだろう。
何の連絡もしないで、その晩もいつもどおり、おれはハルの家に行った。
呼び鈴を鳴らすが、返事がない。しかし、明かりがついている。
「ハル? いないの?」
ノブに手をかけると、あっさりとひらいた。
几帳面なハルらしくきちんと片づいた部屋に、アルコールの空き缶がいくつかころがっていた。
酔って寝てしまったのか。ハルは酒にめっぽう弱い。それにしても無用心だ。
はたして、ハルは床に横たわっていた。呼ぼうとした声を、おれは飲みこんでしまった。
ハルの体をつつんでいたものは、愛らしいワンピースだった。顔にもうっすらと化粧がほどこされていた。
早くここから立ち去ろう、ハルに気づかれないうちに。
そう思うのだが、おれの足は、根が生えたみたいにその場にくっついてしまっていた。
ハルが寝返りをうち、まぶたをあけた。
「あれ……ナッちゃん」
寝ぼけた声でつぶやいて上半身を起こし、目をしばたいていたが、みるみるうちに青ざめた。小さく叫び声を上げ、顔を両手でおおってしまう。
「勝手に入って、ごめん」
棒立ちになったまま、気まずくおれは謝った。ハルがおもてを隠したまま、かぶりをふる。
「僕が、鍵をかけてなかったんだね。だから、ナツは悪くないよ」
ゆめゆめ、人の部屋などいきなり踏みこむものではない。この先、扉をあけるとき、日常とははるかに遠い光景が向こうにあるのではないかと、おれはいつもためらうようになるだろうと思った。
「びっくりしたでしょ、ごめん。笑ってくれていいよ。こんな趣味があるんだって、ひとりでこんなことをしているんだって」
こんな事態になっても、どうしてハルは、他人でなく自分だけを責めるのだろう。
「正直言うと、びっくりは、した。ハルがすごくきれいだったから」
芸術家らしい細い指の間から、ためいきのような笑いがもれた。
「やさしいね、ナツは」
「ちがうよ、おれは、ずっと、ハルは女の子だと思ってた。ずっとずっと昔から」
「僕ってそんなにわかりやすかったのかな」
ハルは、いっそう恥ずかしそうな声になる。
「ハルみたいになれたらいいなって思ってたんだ。ハルのそういうところが、好きだった」
「でも」
ハルが顔を上げた。涙のせいか、アルコールのせいか、目がうるんでいる。
「だったら、どうしてナツはそんなふうにふるまうの。男の子みたいに」
「このほうが、向いているんだ。自然でいられるんだよ」
「そうだよね」
ぽつりとハルがつぶやいた。
「どんな格好をしても、どんなことばづかいをしても、ナツは女の子だもん。可愛くて、きれいな女の子だよ」
「わかってるくせに。おれは、そんなんじゃないよ」
「それじゃあ」
ハルがいざり寄った。吐息は甘い香りがした。たしかに、ハルは酔っていた。寝乱れて頬にかかる髪。まくれたスカートの裾。熱っぽい瞳。首筋から匂うトワレ。
「ナツは、僕を抱ける? どう、抱けるの?」
くらくらと理性が揺れた。ふたりきりの部屋で、ハルにこんな近くで、こんな顔で、こんな姿で、こんなことを言われて、どうして平静でいられるだろう。おれは、膝をついてそっと腕をのばした。
「ほら、抱いた」
ハルのほっそりした体を抱きしめた。ただそれだけしか、おれにはできない。
肉体じゃなくて、心を。器じゃなくて、魂を抱きしめたかった。でもそんなこと、おれには言えない。
しばらくじっとしていた。
「ごめんね、ナツ。困らせたね。しょうがない酔っぱらいだね、僕は」
耳もとでハルが発した声は、酔いからさめた、おだやかな口調に戻っていた。
「ありがとう、ここにいてくれたのがナツで、ほんとうによかった」
うれしさとかなしさが、交互におれの胸をきりきりと苦しくしめあげた。
もし、もしおれじゃなくてアキだったら、どうだったの。
ハル、きみが誰にいちばん知られたくなかったか、おれにはわかっていたんだ。