009
はじめて見るナツの家は、ごくふつうの民家だった。古くて、少々雑然としている。
「ただいま!」
朗らかにナツが叫ぶと、廊下の奥の玉暖簾を揺らしてナツのお母さんが玄関まで出迎えに来てくれた。僕たちに快活に笑いかける。
「いらっしゃい。チハルくんにチアキくんね。いつもチナツと仲よくしてくれてありがとう。さ、狭いところだけどどうぞ上がって」
「おじゃまします」
僕がそう言うと、アキも小さく同じことを口にした。たぶん、アキは人の家に上がるときに何てあいさつをすればいいのかわからなかったのだと思う。
僕は手ぶらなことを恥じた。僕がたまによその子の家にお招きにあずかる際には、必ず母は手土産を持たせてくれる。ひとのお宅を訪問するときには必要なのだと。だけど、この日ナツの家で昼食をごちそうになることは、家人には内緒だった。
おそらくアキも、自分の母親には秘密だったのだろう。いや、もし話したところで、アキの母がそういう気遣いをするかどうかわからない。僕ばかりが土産物を持ってきて、アキひとりが空身というのは、アキに負い目を持たせることかもしれない。
僕がぐずぐずと悩んでいると、それに気づいたのか、おばさんがにっこりする。僕は救われた気分になった。
「何も遠慮することないよ。そろそろごはんの支度ができるから、それまで遊んでなさいな」
「姉ちゃん、友だち連れてきたの?」
どやどやと男の子たちが走ってきた。ナツに兄弟がいることは聞いていた。兄がひとり、弟がふたり。僕たちより年下の男の子が、僕のそでをひっぱった。
「よし、花札でもやろうぜ。やったことある? 知らなかったら教えてやるよ」
「花札? って何?」
僕は目をぱちくりさせた。
「もうっ、この子は!」
おばさんが、ぺちんと男の子の頭を叩いた。
「いってえ!」
「そんなのやってるなんて口にしないの!」
ますますきょとんとする僕に、おばさんが説明してくれた。賭けごとに使われるゲームだとされているので、あんまり品がよくないという。
ぶつくさ文句をたれながら、ぶたれたところをさする男の子が手にした札を、僕は見た。
「すごくきれいだね。おもしろそう、僕、やってみたいなあ」
「なっ、そうだろそうだろ?」
とたんに、我が意を得たりとばかり男の子の目が輝く。
「いいけど、おうちの人には内緒にしといてちょうだいね」
おばさんは笑って、いたずらっ子みたいに唇に人差し指を当てた。
「なんだよ、強いなあおまえたち!」
僕もアキも、どういうわけか強運だった。ビギナーズラックというものかもしれない。もちろん、子供の遊びだからギャンブルではなかったのだけども。
「さあさあ、そろそろ片づけなさい。ごはんできたよ」
おばさんがお皿を運びながら号令をかける。シールがぺたぺた貼られたちゃぶ台を二台くっつけてテーブルのかわりにして、ごちそうが並んだ。
「口に合うかわからないけど、好きなだけ召し上がれ」
僕は不思議な感覚を味わっていた。
畳に敷かれたざぶとんに座ることも、ちゃぶ台に着くことも経験がなかった。
「あ、兄ちゃんがおれのコロッケ取った!」
おかずの奪い合いをしながら、わいわいと囲む家族の食卓も。家庭的なメニューも。
「すごくおいしい」
僕が心から言うと、ナツの弟が得意げに胸をはった。
「うちの母ちゃん料理がうまいんだ」
僕を気安くおまえ呼ばわりしてくるのも、ナツの兄弟たちがはじめてだった。ふしぎに心地よかった。いつの間にか、僕もアキも、ナツの家族になじんでいた。
この家で、この家族に囲まれていたら、淋しさなんて入りこむ隙などないのだろう。
ここにいるとよく納得できた。ナツのおしゃべりなところ、明るいところ、人見知りしないところ、ものごとにこだわらないところ、あたたかいところ、大胆なところが。
ナツはいつでも、おおらかさと屈託のなさで接してくれる。
旧家出身の母に育てられておっとりしすぎているが裕福なうちの子だからといって邪険にもされず、距離を置かれがちな僕にだけでなく。完全に群から追われ、迫害され、疎外され、孤立し、僕のほかに誰も手をさしのべようとしなかったアキにさえ。
僕はきっと、どうしてもナツにはかなわないのだ。そう考えると、少し淋しいはずなのに、それでも僕の心の中はあたたかい何かで満たされていた。