005
「チハルちゃん、学校は楽しい? お友だちと仲よくやってる?」
問われて僕はうなずいた。
いい香りのするお母さま、ふんわりとして甘いホットケーキ、あたたかいココア、真っ白いテーブルクロス。
僕は母と過ごす、こんなひとときが大好きだった。
なのに。
母は少し声を落とした。
「ごめんなさいね、あの子と同じ学校に入れてしまって。クラスまで一緒になってしまって。いやなことされたら、すぐに先生とお母さまにおっしゃいね」
「お母さま」
急に、口の中のホットケーキが味をなくした。冷たいもさもさとしたスポンジでもかじっている気分になって、僕はフォークを置いた。
「アッちゃんは、そんな子じゃない」
母は微笑んだ。
「やさしいのね、チハルちゃんは。でもねえ」
さえぎるように、僕は首を横にふった。
「アッちゃんはいい子だよ。だからアッちゃんのこと悪く言わないで」
「あの子のお母さんは悪いひとなの」
「お母さんが悪いひとだと、子供もそうなるの?」
「あのね、チハルちゃん。あの子のお母さんはね、あの子に何かよくないことを教えるかもしれないわ。そうしたら、あの子はあなたに意地悪したりいやなことをしたりするようになるわ。だからね、あなたはあの子に近づいたらいけないのよ。
ね、あなたのためを思って言ってるのよ、チハルちゃんはお母さまのかけがえのない宝物ですもの」
僕はうなだれた。どう反論していいのかわからなかった。もしナッちゃんだったら、何倍にも言い返せるのに、と思った。
できたのは、ただ、同じことばを繰り返すことだけ。
「アッちゃんは、そんな子じゃない」
ぽとりと目からしずくがこぼれて、きつね色したホットケーキの上で溶けた。
「ねえお願いよチハルちゃん、お母さまをかなしませないでちょうだい。あなたは思いやりのある、聞き分けのよい子でしょう。
あの子と仲よくしたらだめなの。お父さまだってお困りになるわ。あなたがそんな甘い気持ちでいると、今にあの子につけこまれるようになるのよ」
母が釘をさした。見えない釘は、僕の胸を突き刺し、深くえぐった。
アキとその母親の訪問を受けた夜をきっかけに、この家は崩れた。いろんなことが、前のようにうまくいかなくなった。子供でも気づいてしまうくらい、はっきりとだめになった。母も父も、以前の母と父じゃなくなった。
でも、それはアッちゃんのせいじゃないのに。
そんなことを言うお母さまは嫌いだ、と叫んで駆け出したら、きっとお母さまを傷つける。でも、お母さまのこんな話をもう聞いていたくない。
僕はしゃくり上げると、ダイニングを走って出て行った。
他人の悪口を息子に吹きこむようになってしまった母、ぎくしゃくした家、アキのために何もできない意気地なしで不甲斐ない自分。
いくつもの釘が心臓に食いこんで貫き、さいなみ、血のかわりに涙が流れた。
自分の部屋に飛びこんで、鍵をかけて、ベッドにもぐりこんだ。
羽根ぶとんと枕は、声も涙も吸い取ってくれた。
疲れて眠りに沈むまで、僕は肩をふるわせて泣き続けた。