064
「いや! いやだったら!
あなただってほんとうは、ここからでていきたくないくせに!」
子供の私が私につかみかかってくる。私の顔に爪を立てる。
でも、いつまでもこうしているわけにはいかないだろう。
攻撃をなんとかかわしながら私が言う。
「いいっていったもん! ハルちゃんがそういったんだもん!」
私の腕に噛みついて反撃する。
「あなた、じゃま。もうこないでよ!」
私は危機を悟った。
閉じこめておくのか、私を。それとも、亡き者にするのか。
私を喰うつもりか。
喰う? 私を? まさか妖怪じゃあるまいし。人喰いやまんばみたいに。
やまんば? 何だそれは。よく知っているような気がする単語だ。
私はよろめいた。そのことばを反芻するたび、頭が割れるように痛んだ。
その隙をついて、子供が私を押さえつけた。抵抗したが、力が出ない。意識が朦朧とする。
「燃えてるみたい」
枕もとでハルの声がした。そのてのひらが額から離れていく。
いつもあたたかいはずのハルの手。ひんやりしていて、心地よかった。もっと当てていてほしかった。
「風邪なのかな」
心配そうなナツの声も聞こえる。
風邪ではない。私がもうひとりの私と熾烈な争いを繰り広げた結果だ。葛藤し、どうにか相手を出し抜こうと全精力を傾けて戦い続けていたせいだ。それから、意識にひっかかった過去の記憶。ああ、それは何だっただろう。
「氷持って来る」
ナツが立ち上がる気配。私の頭の下にあるのは、氷枕だろう。
先ほどから、荒い呼吸音が絶え間なく耳をかすめる。ようやく、自分の息づかいだということに思い至った。
私のパジャマの袷に手を差し入れたのはハルだろう。腋の下から何かを抜いた。体温計か。
「四十一度五分」
「全然下がってないのか……」
「熱冷ましも飲ませたのに、ちっとも効かない」
「医者はなんて」
「安静にしているしかないって」
まぶたをあけられないまま、私は会話だけをたよりにふたりの存在を感じ取る。ふたりの声は、透りがよくて、やわらかくて、恍惚とするほどこころよい。
もっと聞かせて。ここで死んでしまうなら、ふたりに想われたまま逝きたい。
ああ、うれしい。ずっとふたりのものでいられる。ふたりの心の中にいつまでも住むことができる。
ああ、かなしい。私はこんなにもずるくて卑怯だ。最後までふたりを犠牲にして、ひとりだけ幸せになろうとしている。
私の目から涙があふれた。
「アッちゃん、苦しいの? つらいの?」
つらくなんかない。泣きたいほどうれしくて、かなしくて、幸せなだけ。