ふるふる図書館


050



「ナッちゃん、帰るの?」
 かるく握った手の甲でごしごしと寝ぼけまなこをこすりながら、アキがたずねた。つい先刻の二十歳のアキはみじんも感じさせない。いたいけなアッちゃんだ。
「うん。もう遅い時間になったからね」
「ぼく、駅まで送っていく」
 アキはこたつから飛び出した。
「でも、外は真っ暗だしあぶないよ」
「だったら、ナッちゃんだってそうじゃない」
「ナッちゃんはいいの、強いんだから。でもアッちゃんは子供だよ?」
 おれは何とか、アキの親切を阻止しようとした。アキの誕生日のちょっとした事件は、まだ記憶に新しい。
 ハルのアパートを辞去し、駅までふたりで歩く道すがら、酔っぱらいにからまれてアキが自制心を失ったときのことだ。
 このアキが、どういう反応を取るのかは予測できないが、少なくとも見ず知らずの人間に野次を飛ばされるようなことがあってはいけない。
「僕も一緒に行くよ、それならだいじょうぶだよね」
 ハルがコートと鍵を手に取った。それで決まりだった。

 外に出てしばらくしてから、おれは忘れ物に気づいた。
「いいよ、僕が取ってくるから。茶色い財布だね。ふたりは先に歩いてて」
 ハルは急いでアパートに戻り、おれはアキと一緒にゆっくりした足取りで進んだ。
 年末が近いせいか、にぎやかな通りには勤め帰りとおぼしき、酒をきこしめした人間が多かった。
 上等なスーツを着て、だいぶできあがっている男が千鳥足で近づいてきた。どこかで宴会にでも参加してきたのだろう。
「おや」
 男がアキを見咎めた。おれはいやな予感がして、アキをそばに引き寄せた。
「へえ、おまえ、こんないい女を連れて歩けるようになったのか?」
 酒臭い顔をぶしつけにアキの鼻先に近づける。
「おじさん、誰?」
 アキが眉をしかめたのは、匂いのせいだったと思う。しかし男は気分を害した。
「何をしらばっくれてるんだよ、忘れたとは言わせないぞ」
 聞くに堪えない下品で卑猥なことばを、男はアキに浴びせた。男とアキの関係をこれ以上ないほどはっきり知らされたことと、そのあけすけで直截で淫らな内容とが、おれの顔を熱くした。
「いいかげんに黙れよ不埒な破廉恥漢が。警察呼ぶよ」
 憤りに駆られて叫ぶと、せせら笑いがそれに応えた。
「恥知らずなのはこいつだろ。詳しく教えてやるよ、姉ちゃん。こんななりをしてるがな、こいつはとんだ手だれなんだ」
「そこまでにしていただけませんか」
 静かな声が、聞き苦しい男のそれを圧してひびいた。ハルだ。
「恥の上塗りをしたくはないでしょう」
 男は不快感もあらわに振り返り、アルコールで濁った目にハルを映して表情をこわばらせた。
「チハルさん」
「だいぶお酒が過ぎておられますね。僕の友人をあなたの旧知の誰かと見まちがえたのも、僕の友人にひどい侮辱をしたのも、酔いのせい。そうですね?」
「坊ちゃま、あの……」
 抗弁か弁解かを試みようとする男に対し、ハルは優雅に、しかし冷たくことばをつむぐ。そんな高圧的なハルははじめてだった。
「この場は収めた方が賢明だとお思いになりませんか? 僕の身分をご存じのあなたなら」
 ハルは強く男を見据えている。ややあって、相手は折れた。
「……失礼いたしました。無礼をお許しください」
 額が膝につくくらい深々とお辞儀をして、よろめきながら去っていく。
「だいじょうぶ?」
 おれとアキに、ハルがたずねた。ふたりして呆然とした体でうなずくと、ハルは「よかった」とためいきをついた。
「今の、ハルの知り合い?」
「父の会社の重役だよ。何回か、会ったことが……」
 最後まで言い切れず、ハルは力が抜けたようにかくんとその場にくずおれた。威風堂々としていた姿はたちまち消え去っていた。
「どうしたの」
 あわてて腕を取って支えると、ハルは弱々しく笑った。
「あきれたろ、ナツ。僕はひとを脅迫したんだ。次期社長の座を約束されている、社長令息という権力をかさにきて」
 今にも泣き出しそうなのをこらえている。そんな顔をしないでよ、ハル。なぜハルが、平気でひとを踏みにじれるあの男よりも傷つかなくちゃいけないの?
「ハルちゃん、ハルちゃんはぼくたちのことをかばってくれたんだね。ありがとう」
「ごめんねアッちゃん、あのおじさんを追い払うのが遅くなって。怖かったよね」
「ううん、平気。あれはぼくのことじゃないんでしょ、だから平気」
 アキは精一杯元気そうにふるまう。なぜ悪いことなどしていないアキが、踏みにじられて傷つけられないといけないの?
 おれは胸がふさがれて、何も言うことができなかった。

20060516, 20141006
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