第五部
第三話 出会いは劣等感と
幼少のころは、父に無邪気にじゃれついていた。そんな記憶がある。高い高いも、肩車もしてもらった。
だが、今は会話もめったにない。
もともと父が不在の家だった。平日も休日も。仕事という理由で。おかげで、アフターファイブということばが世の中にあることをずっと知らなかったほどだ。だから心を通じ合わせることができず、話題もないのだと思う。
わが子がなつかないのを母のせいにして、父がなじっているのを眼にすれば、さらに気持ちも離れようというものだ。
それに、父は少し言動がおかしかった。どうも自然じゃないのだ。わざとらしいのだ。
ことに息子に対してはそうだった。愛情が持てず、うとんじてさえいるのに、無理に父親らしくふるまおうとしているのが、長じるにつれわかった。
自分に関する両親の会話を、偶然聞いてしまったことがある。
父は、息子が女のような名前をつけられたことがずっと気に食わなかったと言った。のみならず、息子の容姿は自分の家系のものとまったく似ておらず、妻の一族にそっくりなことも。外見も中身もまるっきり女の子っぽいことも。妻の親族の家に行くと女の子の格好をさせられることも。
たしかに、父は母方の親族の集まりにはまったく顔を出さない。
それに父方の親族は、みんな自分によそよそしかった。疎外感があった。
その態度は、母に対しても同様だったらしい。父方の親族の家に行き、何もすることがないときは、母子ふたりで長いこと外を散歩した。せまくて心身ともに窮屈な親戚宅にいるより、母とふたりきりの時間を持てたことを、事情もわからず単純にうれしがっていた。
両親は長いこと不仲で、それはずっと変わらない。しかし、息子の前では態度に出さないようにつとめていた母は尊敬している。
以前、父が愛人に金をつぎこんで、家に生活費を入れなかったことも、高校生になってからようやくうちあけてくれた。そのころは母が夜まで働きづめだったが、なぜだったのかはじめて合点がいった。
小学生のときだ。鍵っ子ということばは、すたれはじめてはいたがなおも健在だった。学校から帰り、鍵を開けて家に入ると、テーブルの上には母が作って蝿帳がかぶせてある食事と、ちらし広告の裏にペンで書かれた置き手紙。
孤食児童というやつである。
米を炊き、電子レンジがない時代なので鍋でおかずを温め、食べ、食器を洗い、宿題をし、本や教科書を読んだ。誰の声も聞こえないのは怖いから、テレビをつけたままにして。
ときおり、鏡にじっと見入ることがあった。学校で、ひどくからかわれたりいじめられたりした日は特に。記憶から消し去りたい場面が、脳裏でいつまでもループする。
「気持ち悪いな、オカマ。オンナオトコ」
「弱っちいよな、お前。ほんとに男なのか? 確かめてみようぜ」
「やだ、やめてよ……」
泣くこともわめくことも、さらに彼らをあおりたてるだけだった。
どうして、こんな顔でこんな体なんだろう。せめて女だったら、父に避けられることも、同級生にいたずらされることもなかっただろうに。
鏡をたたき割ってしまいたかった。
だがそんなことをすれば、夜遅くに帰ってきた母がおどろき、心配し、かたづけの手間をとらせてしまうだろう。
できない、と思った瞬間、視野がぐにゃりと歪んでにじんだ。母の三面鏡の前で、自分の瞳から大粒のしずくが頬へとはらはらと伝い落ちるのをしばらく見ていた。
それから、母に泣いたことを悟られないために、ふとんに頭まですっぽりもぐりこんで眠った。
高校生になった今では、そんなときまでいい子でいる自分が情けなかったのだと分析することもできるが、当時は自分がいい子だという自覚などまったくなかった。こんなふうに生まれついた自分が悪いのだと思うことしかできずにいた。
七瀬の屋敷に行く日は、胸がときめいた。
自分には遺伝しなかったものの、手先が器用なのがこの一族の共通の資質らしく、小学生のころは、いとこや伯母が作った服を着せられた。フリルやリボン、レースにビロード。
お人形みたいで可愛いと手放しでよろこばれ、化粧をほどこされ、香水をつけられ、写真を撮られ。面倒だと思うときもあったが、着せ替え遊びをはじめてしまえば楽しかった。
ここには、女みたいで気色悪いと悪口雑言を投げつける人間はいないのだ。自分のことを知っている人間も親族以外はあまりおらず、いても本当に女の子だと思いこんでいたらしい。
別人になれることが愉快だった。たぶん、逃げたがっていたのだ。日常から。森川知世という自分の存在から。女の子の服を着ること自体より、そのことが心地よかったのだろう。
「あ、あの」
とある夏の昼下がり、あずまやで、アイスティーにも手をつけずにひとりぼんやりと庭をながめていると、生垣の向こうから呼びとめる声がした。
知世が上げた視線の先に、小学三年生くらいの男の子がいた。じっと見つめると、熱を帯びていた相手の顔がさらに赤くなった。
「ねえ、この家の子? じゃないよね? どこに住んでるの?」
知世が答えないでいると、彼は口ばやになった。
「ぼくね、この近所にいとこの家があるんだ。夏休みとか冬休みなんかにこっちに来るたび見かけてた。気になってて……」
さもあろう、こんな格好をしていればめだちすぎる。
おもしろいからからかってやろうか。相手は、知世のことを同年か年下だと思っているみたいだが、こちらのほうが年上だという確信があった。七瀬一族の童顔をもろに受け継いでいるので、幼く見られるのはざらだ。
「名前。ともよちゃんっていうんだろ。ぼくは、チカシ」
からかうかは別にして、女の子のふりはつづけようと思った。しかし、男の子の一途な顔を見つめているうちに、何も言えなくなった。
今自分を女の子と思わせたところで、先々、もし顔を合わせたらずっとだまさないといけなくなる。それに。
この子も、ぼくが男だとわかればどうせ態度を変えるんだ。ぼくのまるごとを受け入れてはくれないんだ。急に胸がきりきりと痛んだ。
「怒ってるの? ごめんね、急に話しかけて」
男の子は、沈黙を別に解釈したようだ。疼痛が、知世ののどもとまでこみあげた。
「もう行かなくちゃ。バイバイ」
かろうじて小声でささやくように言うと、屋敷の中へと逃亡した。
それきり、チカシという子に会うこともなくすぎた。
桜花高校にめでたく入学が決まった。七瀬邸に下宿することになり、伯母はたいそうよろこんでくれた。
桜花を選んだ理由は、羞恥のあまり告げられなかった。
演劇をするため、だなんてとてもではないが話せない。人前に出ることを極力避けてきて、自己主張さえもできないのにどうしちゃったの、そう思われるはずだ。想像しただけで、顔から火が出そうになった。
なぜわざわざ桜花で演劇活動をしたいのかとたずねられたら、七歳のときに見た芝居の感動まで語らなくてはならない。無理無理。そんなのは無理だ。まして、八年間も思いつづけていたなどと、口が裂けても話せない。
しかし、自分を知る者のない環境に行けば、何かが変わるのではないか。これまでのどうしようもない人生をリセットできるのではないか。だから、生まれ育った場所を離れた。
首席入学者は入学式で、代表の挨拶をすることになっている。うちあわせと簡単な予行練習のため、知世はほかの新入生たちより一日早く、まっさらな制服を着こみ、桜花高校に出向いていた。その帰り。
「ともよちゃん?」
七瀬家に入ろうとしたところで、聞き慣れない声が自分を呼んだ。
少年が立っている。あどけなさが顔に残っているが、それにしても長身だ。知世よりも背が高い。彼は眼を細めた。
「やっぱりそうだ、変わってないなあ。ぼくのこと、忘れちゃった?」
知世は、顔と名前をおぼえるのが驚異的に苦手だ。困って視線をうろうろさまよわせた。
「チカシだよ、ほら、前に一度話したことあっただろ、ここで。もう四年たつかなあ」
記憶がどっとよみがえり、体の奥がまたきゅっとしめつけられる。
「ともよちゃん、桜花に通うんだ? すごいね」
「えっ?」
ぽかんとすると、チカシはくすくす笑って、知世のコートの裾からのびた脚を指さした。
「それ。桜花の制服だろ」
桜花は言わずと知れた有名「男子」校。ということは、彼はわかっているのだ。知世の年齢も性別も。
あの歳であんな格好をしていたら、変態そのものじゃないか。軽蔑され、あざ笑われるに決まっている。逃げ出したいのに、ひざがふるえて動けない。いたたまれずにうつむいた知世の髪を、吹いてきた春風が乱した。チカシが手をのばした。
「桜の花びらがついてるよ。取ってあげる。じっとしてて」
緊張して、全身がぎくりとこわばった。同性に触れられるだけで、こんなに警戒する自分になってしまったのかと悲しくなった。もう、あんないじめはないというのに。
「髪、ずいぶん細いんだね。やわらかくて、きれい」
チカシはそのまま、髪をそっとなでた。粘着質な感情はそこにはきれいさっぱりなかったが、知世は視線を上げられない。つまさきにぼそぼそ話しかけた。
「おれ男だし、年上だよすごく。知ってるんでしょ」
なのになぜこの子は平気なのか。気持ち悪くないのか。変態とののしらないのか。
「ほら見て」
チカシは、自分のコートの前をあけた。下に着ていたのは、真新しい紺のセーラー服。
「春から中学生になるのに、いちばんいやなのがこれ。こんなもの、着たくないのにさ。
ぼく、本当は柳田誓子(やなぎだせいこ)っていうんだ。誓うに、子供の子だから、チカシって自分につけた。こっそりね。親にも言ってないよ。ともよちゃんだけ」
「おれにだけ……」
「自分が、男になりたいのか女でいたいのかよくわからないけど、いつも好きになるのは女の子なんだ。だけどね、ともよちゃんは、男でも関係ないよ……」
数秒たってようやく、これはいわゆる告白ってやつでは、と思いあたり、知世は激しくうろたえ、狼狽のあまり、勢いよく頭を起こしてしまった。
ついこないだまで小学生だった子に。三つも年下の、しかも女の子に。しかし女の子は男の子としてプロポーズしていて、自分は女の子としてプロポーズされていて。
混乱して、くらくらしてきた。
「気持ちにすぐにこたえてなんて言わない。ともよちゃんは、ぼくがだめ? 女だから? それとも男っぽいから?」
ちっとも自慢にならないが、知世はこういうシチュエーションはまるきり経験がない。どうしよう、どうしよう。どぎまぎしていると、相手は、不意に笑顔になった。
「ごめんね、またともよちゃんを困らせた。今のは忘れて。じゃあね」
背中を向けて歩き出す。優柔不断な自分より、よほど余裕があって、度量が広くて、おとなで、格好よくて、男前だ。知世は、反射的に追いすがり、その腕をつかんだ。
「おれ、見た目はこうだけど、でも本当はきみみたいになりたいんだ。だから、その……」
次に言うべきことばが用意できてなかった知世は、ひとことだけでたちまちみっともなく口ごもった。だがチカシは知世の意思を汲んだらしく、もう一度にっこりした。
「ありがとう。たぶん、ぼくはほかの誰かを好きになってもその先に進めないと思う。だから、もしともよちゃんがその気になってくれたら、いつでも言って。待ってるから」
絶対、おれなんかよりいい子が見つかるよ。せつにそう思ったが、自分の言うべきことじゃないと考え、知世はただうなずくことしかできなかった。
この近隣では最も大きい駅の周辺にあるせいで、夕方のショッピングモールはごった返していた。知世はふと立ち止まった。
髪をきりっと短くした、ようすのいい背の高い人影。数か月前に会ったより一段とりりしくなっている。女の子と歩いていた。
おっとりとした印象の、可愛らしい少女だ。仲よく手をつないでソフトクリームを食べ、ときおり連れのほうを見ては幸せそうにほほえむ。
そうか。やっぱり見つけたんだね、おれのことなんか待たずに。
知世が感慨にふけっていると、いきなりわきからほっぺをむぎゅうとつねられた。
「いた! 痛いって!」
あまりといえばあまりの仕打ちだ。痛みに我知らず涙ぐんでしまう。
「いつまでぼけっとしてるんだ、置いてくぞ」
春日玲が不機嫌そうに眼をすがめ、さっさと人ごみをすり抜けて歩を進めた。
「ちょっと、待ってよ」
あわてて玲の横に並び、振り返ると、ふたりの姿は人波にのまれてすでに見えなかった。
「今の、知り合いか? 熱心に見とれてたぞ」
少しうらやましかった。
ありのままを受け入れてくれる人を見つけたチカシが。知世のありのままを受け入れてくれるはずだったチカシとつきあっているあの子が(おまけに、少し知世に似ていた)。
性別や年齢など関係なく、自分をまるごと全部受け入れてくれる人を欲しがるのは、甘えなのだろうか。
「うん。ちょっと、やきもちかな。いや、後悔かな。未練かも」