ふるふる図書館


第四部

第六話 親子に関する一考察




 森川知世は、先刻から上を見たり下を見たり左を向いたり右を向いたり。こきざみな所作挙動が、子りすかなにかの小動物めいている。えらく落ち着きがない。そうでなくとも、視力が少々よくないせいで、よけいな動きが多いのだ。
 場違いにならぬようにと、きつく言い渡しておいたために、いでたちだけは良家のぼんぼんといったふぜいである。知世と同居している伯母にすれば、そのような服装を用意するのはお茶の子さいさいだろう。知世の私服は、いつもセンスがずぬけている。
 世間の羨望を一身に集めている、天下の桜花高校への入学は、ただ制服がよいからという理由で歓迎したふしさえある。子弟が桜花に合格したら、泣いてよろこぶ親族もあると聞くのに、酔狂なことだ。
 あまつさえ、知世にファッションセンスをみがかせようと、幼少期からきっちりみっちりしごきあげたらしい。さまになる結び方を伝授しようと、スカーフ千本ノックをやらせたりしたそうなのだから、無類の不器用さを誇る知世はさぞ難儀なことだったろう。
 知世の髪も、伯母がはさみを入れてととのえているそうだ。そろえるていどにとどめているため、少々長めで、むだに過剰に可愛く見えている。
 そんなわけで、トラッドな格好もよく似合った。むろん、そんなことを口にして、知世ごときをよろこばすつもりは、春日玲にはもうとうない。
 夜の静寂をついて涼やかに遠くひびく音色は、ししおどし。日本庭園をのぞむ座敷に、玲と知世は並んで座っていた。
 山城迪香(やましろみちか)の開催した会食の舞台は、庶民にはとんと無縁の老舗の高級料亭。その広い広い個室である。
「そんなに緊張しなくていいのよ」
 山城迪香がいとも穏やかに言った。小市民なのにくわえ、初対面の人間が苦手な知世には、無体な注文というものだ。
「知世さん、って呼んでもいいかしら」
「は、はいっ」
 応えるだけで、箸からテーブルへと刺身がぽとりと落下する。失態にまた、知世はぱっと赤面した。
 落ちたはまちの処置をどうしようかと、おたおたと動転する知世。見ちゃおれん。玲は、はまちをテーブルからすばやくつまみ上げて、自分の口にぽいっと放りこんだ。
 山城迪香がにこにこと眼を細めた。
「本当に可愛らしくていらっしゃるのね。玲さんが、なかなかあなたをわたしのもとに連れてきたがらなかったわけがよくわかるわ」
「そんなことはありませんよ」
「あら、そんなことはあるわよ。知世さん、気分をほぐすために一献どう?」
 山城迪香が、徳利と猪口をかかげた。知世が口をひらく前に、玲は制した。
「だめですよ、こいつは飲めないんです。笑えるほど弱いんですよね。酒ぐせ悪いし、からむし、騒ぐし、すぐ寝るし。アルコールが入ると社会の害悪の権化となりはてるのがおちですから。せめて人間としての尊厳を保たせてやるのが情けってものです」
「な。何を嘘八百並べたててるんだよ、失敬な。根も葉もないじゃないか。お酒、いただきます!」
「無理しなくていいのよ」
「だいじょうぶです。いけます」
 知世はむきになって、力みかえっている。山城迪香が、玲をちらりと見た。過保護なのね、とその一瞥は語っているようだったが、気づかないふりをすることにした。

「けっこういけるくちなのね、知世さん」
「そうでもないですよう。日本酒って、おいしいんですねえ」
 すっかり打ち解けまくっているふたりを尻目に、玲は黙々と割烹料理をたいらげていた。
 多少お相伴にあずかってはいるものの、もともと強いことと知世が酔って何かしでかすんじゃないかという危惧とで、まるきりしらふだ。
 だが、たとえ酩酊していてもそれを瞬時にふっとばすような人物がやってきたのである。
 沈着冷静をもって鳴る、さしもの玲もぎょっとした。バケツ一杯の冷水を浴びせられた気分であった。実際に浴びせられたことはないし、そんなけしからん人間は半死半生の目にあわせる自信はあるが。
 障子を開けて入ってきたのは、戸籍上は養母であり血縁上は祖母にあたる春日蕗乃(かすがふきの)だったのである。
 反射的に山城迪香に視線を投げると、おっとりした笑顔が返ってきた。こんな悪趣味なサプライズパーティーを仕組んでいるとは、実に侮れない策士だ。
「この子は? 玲の友達? まさかね。おおかた、玲の犠牲者ってところかね。ほんとに手癖の悪い、恥知らずだから、玲は」
 春日蕗乃が不審もあらわに知世に視線を向けた。だが、向けられた本人、いともあっけらかんとしたものだ。
「そうです、犠牲者でーす。因果なことに、玲君のお友達やってるくらいですから」
「誰がお友達か。飲みすぎだ。帰るぞ」
 玲は知世の手をひっぱった。勢いで、体ごところんと玲の膝に倒れてきた。起き上がろうともしないで、知世は玲を仰いで抗議した。
「何だ何だ。今日とゆー今日は酔った勢いで言わせてもらうぞ! いつもどうしてそんなに高飛車で強引なんだよお。この、いばりんぼ」
 完全にできあがっている。この春日玲さまに膝枕させて、なおかつたてつく度胸があるとは。
「重いぞ、酔っぱらいが」
「うまく手なずけたもんだね、玲。いいとこのお坊ちゃんなんだろ、その子。新しい金づるを見つけるために桜花に入ったわけだ」
 玲が誕生したせいで、春日蕗乃の娘の小枝(さえ)が死んだのだと常々ことあるごとに言われて育ったくらいだ、それは呪詛のように身に染みこんで離れない繰り言だった。春日蕗乃がおのが養子に向けるのは、完全な無関心かそうでなければ、こんなふうにとげとげしく毒々しく憎々しげな態度だ。すっかり慣れきっているが、知世はそうではない。
「こいつのこと、どうしてそんなに悪く言うんですかあ? 玲君って、こう見えても、実はさびしがりでロマンチストでおセンチなはにかみやさんで、いつも明るく元気なおちゃめさんなんですよお。ちょっぴりどじでおっちょこちょいなのが玉に瑕ですけど。みんな知らないんです」
「おれも知らん。どこの玲君の話だそれは。お前はもう黙ってろ、すっとこどっこいのあんぽんたん」
 玲は知世の口をはっしと手でふさいだ。
「人をたぶらかすのが得意だねえ。相変わらず演技が上手だこと」
 そりゃあ、女優の息子だからな。養母のいやみに、玲は肩をすくめた。
 第三者の知世の前でも、玲への憎悪をおおっぴらにするとは、よほどきらわれたものだ。もっとも、まさに毒牙にかけられているかたぎでうぶで、世間知らずな男の子を救おうという親切心もはたらいているのかもしれないが。
「まったく、ばかだよ小枝も。あんな男の子どもを産むなんて。妻子持ちの男は、結局家庭に帰るんだ。それを、裏切られたと落ちこんで。小枝が死んだのは、あの男のせいも同然だよ。
 玲、お前も絶対あの男のようになるよ。人をだまして裏切って、死に追いやって。だってあの男の血をひいてるんだからね」
「あのお、お話がよくみえないんですけど。そのさえさんというひとは、子どもを産んでからすぐ亡くなったの? 相手の男の人は、子どもができたって知らなかったの?」
 玲のてのひらを押しのけた知世が、ろれつの回らない声で水をさす。さすが酔っぱらい、怖いものなしだ。玲は応えた。
「知ってたら、堕胎をすすめただろうな」
「じゃあ、さえさんは、どうしても産みたかったんだ」
「自分の利益のために、男に近づいたんだ。利用しようとしていた。子供に愛着などない。むしろじゃまなだけだ」
 春日小枝は、美人だが売れない女優だった。役をもらうために自分の身を売ったというわけだ。そんなことは、むろん知世に話してやる義理はこれぽちもないので黙っていた。
「そうなの? うーん。計算高いんだったら、子どもを産んだら武器にすると思うよ? うーん。そうしないのなら、そもそも産まないんじゃないの?」
 そうだ。
 なぜ、春日小枝は、玲を産んでから自殺などしたのだろう。たしかに、そんなたまじゃなさそうだ。しかも、知世に指摘されるまで、うかつにもまったくそのことに考えが至らなかった。あえて実母から意識をそらしていたせいか。
「やっぱり、第三者の目でないと見えないものってあるのね」
 傍観をつづけていた山城迪香が、ふと吐息をついた。
「あなたがたはめいめいで小枝さんの遺した断片的な日記を読んだだけだから、どうしても食いちがってしまったのね。
 小枝さんは、妻子持ちの彼にだまされて、身ごもった。彼は裏切って小枝さんのもとを去った。だから失意のうちに出産して自殺した。春日さんは、そういう解釈。
 小枝さんは、私欲のために彼を利用した。関係を結ぶことも、そのひとつだった。でも何らかの理由で子どもがおろせなくなり、自分の目的が達せなくなって、将来を悲観してみずから命を絶った。これが、玲さんの解釈。
 ここまでは当たっているでしょうか」
 玲と養母は、それぞれの身ぶりで肯定した。
「お互いに話したことがないから、齟齬に気づかなかったということよね。
 知世さん。これから話長くなるわよ。どうする? 眠いのなら、隣の部屋で仮眠を取るといいわ」
「はい。そうします」
 知世はやけにおとなしく、もぞもぞと起き上がるとぽてぽてとふすまに歩み寄り、開けた。「おやすみなさい」と挨拶して閉めた。酔ってるくせに礼儀正しい。玲以外には。

 山城迪香は、わずかに残っていたお猪口の中身を干してから、真相を語りはじめた。
 山城迪香の娘、栞(しおり)は、女性しか愛せなかった。
 綾小路真琴は、きれいで可愛い人なら性別問わず目がなかったから、というよりも、同性のほうにより興味を示すタイプだから、栞は絶好の結婚相手だとふんだらしい。
 栞には、ずっと交際している恋人がいた。それを承知で、真琴は結婚してくれた。お互い、別の人間を愛してよいというルールで。結婚生活は、いわば隠れみのだった。それでも、子供はもうけたわけではあるが(一度だけ面識がある、玲の兄だ。そんな状況で生まれた子供も、思えば不遇なものである)。
 だが、誤算はあるわけで、真琴は妻が好きになってしまった。栞は困った。夫の気持ちが負担になって、栞は一計を案じた。
 浮気をさせることにしたのである。その現場をおさえて、証拠としてあげれば、真琴は離婚に応じるしかないとたくらんだ。
 その相手に選んだのが、自分が長年つきあっていた女性、春日小枝だった。
 離婚できれば、ふたりで会う機会も増えるとか説得したと思われる。小枝は敏感だから、栞の心変わりに気づいたかもしれず、だから、そんな要求に応じたに違いない。
 こうして、小枝は真琴と親密になった。もしかしたら、栞とよりを戻す機会をうかがっていたのだろう。しかし徒労に終わった。落ちこんでいたのは、栞に裏切られたからであって、真琴にではない。
 栞は、最終的に所帯を捨てなかった。だから、小枝は妊娠したことを栞にも真琴にも、むろん身内にも言い出せずに出産したのだ。
 さらに、小枝が亡くなったのは、自殺ではなく事故だった。子供を抱えてひとりで生きていくつもりだった。屋上から落ちたのは、足を踏みはずしたせいだったのだという。
 超弩級の破壊力のある告白だ。玲は声を押し出した。
「なぜ、今になってそんなことを話すんですか?」
「もっと早くに話せればよかったわね。小枝さんから頼まれていたの。子供が十八になるまで、伏せておいてくれと。玲さんが十八になるまでまだちょっとあるけど、黙っていられなかったの。大切な行事を間近に控えた身ですもの、すっきりさせてから臨んだほうがいいと思って。
 わるいのは真琴さんではないの。すべての原因はわたしの娘です。栞にかわってお詫びします」
 はじめて見せる、完全に笑みが消えた顔で、山城迪香は一礼した。
 綾小路真琴や、玲に対する山城迪香の態度の不可解さが、ようやく合点がいった。怨恨となぜ無縁でいられるのかが、玲の長年の疑問だったのだ。さりげなく探りをいれようにも、のらくらはぐらかされてばかりだった。
 山城迪香は、春日小枝の所属していたプロダクションの社長だ。事情にはすべて通じていたのに間違いない。
 第一、綾小路栞も春日小枝も、とうに故人になっている。そんなのはずるい。卑怯だ。

 タクシーの中、知世は、玲によりかかって無心にまぶたを閉じていた。のんきなものである。
 玲は、眠りこんだ知世を送っていくという名目で、養母や山城迪香と別れたのだ。
 車窓に映る知世は、かるくひらいた口から前歯が小さくのぞいていて、やはり子りすのようだ。外からさす明かりが落ちる知世の頬に、まつげの影が長くのびているのを眺めながら、別れぎわの山城迪香の台詞を回想していた。
 なぜ、知世をここに呼んだのかという質問に対して、こう応じた。
「人質よ。知世さんがいないと、玲さんは何をするかわからないもの。話を聞かずに出て行ってしまうことだってありうるでしょう?」
 自分がそんなにおとなげないとは思えないが、彼女がさりげなくつけくわえた内容は、残念ながら的を射ていた。
「あの子のおかげで、核心に迫れる話がすんなりできたし、ありがたいわ。それにね、玲さんも、知世さんがいてよかったでしょう?」
 知世が身じろぎして眼をあけ、玲の思索を中断させた。
「あれ? ここは? 車の中? もう帰り?」
「おぼえてないのか」
「えっと。お酒を飲みはじめたところまではおぼえてるけど」
 知世は、おぼつかなげにもそもそつぶやき、両手のこぶしでとろんとした眼をごしごしこすった。
「それはそれは壮観だったぞ。お前ときたら、歌うわ、脱ぐわ、踊るわ」
「えええっ。嘘っ?! おれしたの? 裸踊り」
「まあ、思い出さないほうが幸せってこともあるよな。ほら、着いたぞ、降りろ」
 驚愕し、うちひしがれてしょぼたれた知世の背中が、下宿先の家の門に消えていく。
 それから玲は、運転手に自宅の住所を告げようとした。そう、そこが自分の家なのだ。とりあえずは。
 もう養母は先に着いているだろう。はたして、どんなふうに接すればよいのやら。
 玲を呼ぶ声がきこえて、外を見やると知世がまだ立っていた。
「ごめんね」
 かしこまって、やたらちんまり小さくなっている。遠近法が狂ってるのかってくらい。手のひらにのるくらい。あまりのちぢみっぷりに、玲は吹き出した。やっぱりあほうだ、こいつ。
 この姿を思い出したら、いついかなるときでも、向こう五年は笑えるんじゃないかというほど。細くてやわらかくて色素の淡い髪をぐしゃぐしゃにかきまぜて、つやつやしたほっぺたをぎゅうぎゅうひっぱってやりたくなるほど。知世のことがおかしくておもしろくて、……。

20050428
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