ふるふる図書館


第四部

第七話 初恋に関する一考察




「知世ちゃん。ほら、あなたの制服、深晴(みはる)君のと区別つくように刺しゅうしといたわよ。どう、可愛いでしょう?」
 伯母が、スキップするような足取りで、わざわざ甥の部屋までワイシャツを見せにやってきた。
「えー。チューリップの刺しゅう?」
「あら。アップリケのほうがよかった?」
「違うって。これじゃめだつよ。体育の着替えのときとか、からかわれちゃう」
「でも、知世ちゃんのと深晴君のと、一緒に洗ったら後でわからなくなるんだもの。体操服なら学年が違うから色で見分けられるけど」
「わかったから。もうちょっと控えめにしてよね、恥ずかしいよこれ。あと、花っていうのもだめ!」
「もう。文句が多いお年ごろですこと。やっぱり反抗期かしら」
 憎まれ口をたたきながらも、伯母の機嫌はゆらぎもしない。鼻歌を歌いながら、森川知世の部屋を出て行く。
 後姿を見送って、知世はためいきをついてがっくり机に伏せた。
「なんでだろ?」
 手足をばたばたさせて、狭苦しい学習机の上をごろんごろんところげ、煩悶してしまう。
 チューリップの刺しゅうをされても、黙って受け入れるものなのだろうか、おとなの男というものは。いや、おとなの男扱いされていれば、そもそもそんな刺しゅうをほどこされたりしないか。
 しかし、これまでの十七年間の伯母との軌跡をかんがみるに、今さら変更はむずかしい。
 だとしたら、たとえいちごの形のボタンだろうがうさちゃんのアップリケだろうが、余裕の態度で受けとめるのが愛のあかしなのか。
「何してるんですか? 先輩」
 同居人の小園(こその)深晴に入口からのぞきこまれ、知世はとびあがらんばかりにおどろいた。
「なんでもないよ、はは。あははは」

 明けて翌日。
 くちなしの香る道を歩いていると、伯母の姿を見つけた。見知らぬ人と路傍で楽しげに立ち話をしている。
 これがいわゆる、ロマンスグレーというやつなのだろう。銀色のゆたかな頭髪とひげがみごとな、恰幅のよい紳士だ。
 伯母を昔から知っている人物だろうか。
 現在に至るまで、ずっと同じ家に住んでいる伯母は、この界隈に幼なじみが多い。近隣一帯の少年たちは、みんな伯母の家来だったという武勇伝がある。ちなみに、伯母の妹つまり知世の母は、少年たちを子分にしていたというのだから、めっぽう剛毅な姉妹であった。
 いかに若く見えるとはいえ、伯母は知世の母よりも年齢が上なのだから(当たり前だが)、この紳士とも同年代なのだろう。
 立ち止まって考えをめぐらしていると、伯母のほうが知世に気づいた。
「あら、知世ちゃん」
 呼びかけて、小さくおいでおいでする。それでは、そばに行かないわけにはいかない。
「この子、あたしの甥っ子なの。知世ちゃん、こちらは、あたしの高校のときの同級生よ」
「こんにちは」
「こんにちは。ずいぶん大きくなったものだなあ」
「あら、おぼえてるの」
「おぼえてるよ。玖理子(くりこ)にまつわることはね」
 なんだ? その意味深長な台詞は。
「知世ちゃんが小さいときに会ってるのよ。知世ちゃんが、二歳くらいのときかしら」
 それじゃ大きくなっていて当然じゃないか、と知世は妙に反感めいた感想をこっそり胸中でもらした。
 なぜ、これほど気分が下降するのか。
 紳士が、伯母を呼び捨てにしたからか。
 伯母が、はしゃいでいるからか。
 自分の知らない過去を、自分の知らない人がかってに知っているからか。
「この人のこと伯母さん好きなの?」と素直にすねることができたら、どんなに楽か。
「いやあ、玖理子に似ているもんだなあ。今何年生だい?」
 知世の顔をしげしげ眺めたままたずねるのだから、知世に質問しているのだろう、と判断し、答えた。
「三年生です」
「そうかあ、じゃあ進路のことでたいへんな時期だね。受験する高校は決まったの?」
 知世は、今このときに桜花高校の制服を着用していないことをはなはだ悔やんだ。
 もっとも先日、学校の図書室に本を返却しにいったら、カウンターにいた二年生の図書委員に「この本おもしろかった?」と、いきなり、敬語も何もあったもんじゃない同格の口のききかたで話しかけられた知世ではある。
 もちろん知らない人間だ。
 色で学年を示す校章が視界に入らなかったとしても、制服の年季の入り具合から、学年が上だということは容易に見て取れるのではないかと思うが。
 しかし、フランクすぎる初対面の下級生にいわゆる「ためぐち」をきかれたときと比較にならないほど、知世は気分を害してしまった。
「いえ、あのう……」
 あやうくむくれそうになる知世のわきで、伯母が失笑をこらえている。人のことが笑えるのか? この童顔は、誰のせいだ。あなたたちの血筋のたまものでしょーに。
「やだ、この子高校三年生よ」
「ああ、そうか。やっぱり七瀬(ななせ)の家系だなあ。すまないね、知世君」
 何だ何だ、このふんぷんと匂い立つような、私はいかにもおとなの男ですってなオーラは?
 伯母の態度も、知世に対するものと違うのは明白だった。
 おとなに接する、おとなの顔をしている。はじめて眼にする表情だった。
 知世は、少なからず衝撃を受けて、ふくれっつらもできないでいた。

「ねえあの人、伯母さんと昔つきあっていたりしないよね?」
 家に着いてお茶を飲んでいるとき、知世は意を決してたずねた。
 伯母は肯定も否定もしなかった。
「直截なのね。知世ちゃんたら子供なんだから」
 その晴朗にすぎる笑みが、少々かんにさわった。ようやく、伯母は知世のただならぬ気迫に気づいたようだ。
「なあに、どうしたの? まなじりを決して。そんなきびしい顔したら、せっかくの可愛さがだいなしよ」
「か。可愛くなくてけっこうだもん。
 伯母さん、おれに言ったよね。この家を継いでくれないかってさ。でも、もし伯母さんが再婚することがあったら、相手と一緒にここに住むんでしょ?」
「それはわからないけど、そうなるのかしらねえ……」
「伯母さんが再婚するんなら、おれ、絶対この家継がないからね!」
 平生と違うだだのこねっぷりに、伯母は眼をみはった。知世の隣に回り、あやすように頭にぽんぽんと手を置いた。
「わかったわ、知世ちゃん」
 知世は手を振り払った。
「ちっともわかってないよ! いつまでも子供扱いして! おれは伯母さんが好きなのに!」
 ……げげっ。勢いにまかせて告白してしまった。
 それでも、伯母は落ち着きはらっていた。だてに年齢を重ねていない。
「ありがとう。伯母さんも知世ちゃんが好きよ」
 知世ちゃんが好き。これはしょっちゅう言われ慣れていることばだ。
 そうだ、いつも通りの日常ということで、この場は流してしまおう。真剣な告白などなかったことにしてしまおう。必死にそう思いこもうとし、やっきになっておのれに言い聞かせるのだが、そむけた頬のほてりが知世を裏切ってしまう。マインドコントロール失敗。
 伯母は静かに語をついだ。
「わかってたわよ。知世ちゃんの気持ち。ずっとね」
 やさしみのこもった声に耳をかたむけながら、知世は考えた。
 なぜ、伯母を好きになったのだろう。自分にそっくりな顔をしている伯母を。いったいいつから。
 母の顔も伯母によく似ているはずなのだ。だが、母は伯母と異なり、生活に若さをすり減らされていた。
 知世は、もしも女に生まれていたら違う人生になっただろうに、男に生まれたおかげで、幼いころから性的ないじめやいたずらの餌食にされつづけた。その傷は、なかなか癒えない。
 だから、伯母にあこがれたのだ。自分とそっくりな伯母にあこがれれば、伯母と同じように、おおらかでゆったりして余裕があって、ものごとに動じない人間になれるのではないかと、そう期待して。
「誰かを好きになれるなんて、すばらしいことじゃないの。これからも、ひとのことを好きになれるあなたでいてちょうだいね」
 伯母に抱きしめられて、知世の鼻の奥がつんとした。その痛みに、かるく涙がにじみそうになった。
 伯母の体から立ちのぼるかぐわしい香りのせいなのか、恋に破れたせいなのか、思い出すまいとした自分の過去のせいなのか、知世にはわからなかった。

「もうっ、伯母さん! この刺しゅうじゃだめだってば」
 知世は、むすっとしてワイシャツを伯母に突っかえした。
「あら、どうして? ひよこちゃん、いいじゃないの。お気にめさなかった?」
「ひよこちゃんもそうだけど! 『ともよ』なんて名前までしっかり縫い取りしなくてもいいじゃないかあ! それもひらがなで!」
 子供扱いされてもいい、伯母と今までと変わらずやっていけるなら。そう思ったのに。
 やっぱり困る。おおいに困る。
 よくよく考えてみたら、五年後も十年後も、へたしたら二十年後も知世ちゃんと呼ばれ、現在とまったく同じ待遇をされているような気がする。
 これも、七瀬一族のご先祖さまの、あらたかすぎる霊験のおかげなのか……。

20050428
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