第四部
第四話 演技に関する一考察
どんなに容貌がととのっていても東洋人でも、それほどめだちはしなかった。
一本の映画に出演し、その作品が評価され、興行収入がうなぎのぼりになるまでは。
演技のことにとどまらず、雑誌では、切れの長い涼やかな眼、オークルのきめこまやかで不透明な肌、つやつやした黒髪を持つ東洋人特有の風貌が持つ魅力までも書きたてられた。
外見が、演劇におよぼす影響は無視できないものだし、自分がじゅうぶんに見目うるわしいことも認める。
しかし、私生活や生い立ち、主義主張やら趣味嗜好は、芝居になんら関係がないと思う。
そうまじめに述べたら、笑われた。
「熱心だな。そこまで、芝居に入れこんでいるなんて。みんな、きみに興味があるんだよ。きみが演じた日本人の少年リョウじゃなくてね」
リョウと自分とでは、あまりにちがう。イメージを壊したらよくないのではないか。幻滅されるのではないか。
だから、私生活に演技を持ちこんだ。
よく考えたら、日常生活は演技にみちみちているものだ。
おなかすいた? とたずねられて、疲れきって食欲もないのに「もうぺこぺこ! 早くごはんが食べたい!」といかにも快活にふるまうこと。
重い風邪をひいていても、「だいじょうぶだよ」と平気そうにしていること。
とても笑う気分じゃないのに、カメラの前ではただちに微笑を浮かべること。
すべてが、嘘と欺瞞だらけではないか。日常生活こそが、舞台なのだ。
自分がちらりとでも笑うと、みんながうれしそうにするから、だから笑ってみせるのだ。
少しでも沈みこんでいると、みんなが心配するから、だから明朗に闊達にふるまってみせるのだ。
でも。
自分の本当の気持ちって、いったいどこにあるのだろう。
いや、違う。
こうして、みんなの前で、みんなの注目を浴びて陽気にのびのびしている自分が本当の自分なのだから。
ある朝、突然ベッドから出られなくなった。
「どうしたの、早く起きなさい。今日は撮影があるでしょう」
母が呼びにきた。そうだ、少しくらいの眠さがどうしたというのだ。
そう我が身に言い聞かせて上体を起こしたら、ひどい吐き気がした。だるくてだるくて、倒れそうだった。
それでも、何とか仕事に行った。
だが、翌朝も、その翌朝も、起き上がるのが苦痛だった。
「このところ働きすぎたから、怠け病が出たのかしら」
母が首をかしげた。しばらく休んだほうがいいかもね。疲れてるんでしょう。
しばらく予定を入れず、自宅で休養することにした。名目は体調不良。なんだか漠然とした理由で、まるでたいしたことがないのにさぼっているみたいで、恥ずかしかった。
母の言う通り、ただの怠け病なのだろう。寝ても寝ても疲れがとれない、なんて告白しようものなら、若いのにとあきれられて終わるだろう。
数日後、雑誌の取材があった。
写真撮影をしていたとき、顔の筋肉がひきつって困った。仕事に支障をきたされる。
気持ちが悪い。全身の皮膚という皮膚に違和感があった。衣類と接している箇所、椅子に接している箇所、それらがすべて気持ち悪い。自分の体自体が気持ち悪い。
吐くものもないのに吐き気がする。
「顔色が悪いんじゃない? だいじょうぶ?」
カメラマンにたずねられた。少し休んだほうがいい、とすすめられ、スタジオの一室で毛布にくるまって横になったらすぐさま深い眠りに落ちた。やっと眼がさめたのは、七時間も経過してからだった。
病院に行ったら、甲状腺の機能が低下していると診断された。ストレスのために免疫がはなはだしく下がっているのだという。
治癒するのには、今していることをやめなくてはならないと医師は言った。
症状をやわらげる薬は処方されたが、仕事をやめずにいたら、過換気症候群というものにおちいった。
うまく呼吸ができず、手足の先が異様にしびれて震えて冷たくなり、動悸がして、恐怖をおぼえるほど苦しい。外出するときには、紙袋が手放せなかった。
また、ヘルペスもわずらった。左の腕、わき腹から背中にかけて、一面のできものにおおわれ、激痛で話すことも歩くこともままならないほどだった。
いずれも、ストレスから来る疾患だった。マスコミには病気であることを隠した。
母は悲しそうな顔をした。これは、自分がつらそうにしているからなのだと思った。
「日本に帰ろう。お父さんが、また一緒に暮らそうって言ってくれたの。ね、三人でもう一度日本で暮らそうね。お前には、この世界は向いてないわ。そんなつらい思いをしてまで、演劇をやることない。何もかも忘れて、新しい生活をはじめよう」
母がそれを望むなら、それが一番だ。どのみち、ここにいても自分は演劇をつづけるのはむずかしい。何度も何度も、スケジュールに穴をあけてしまったのだから。仕事をほされたら、おいそれと復帰はできない。
帰国して、桜花高校に入学した。
どのような自分でいればよいのだろうかと思案をめぐらせた。
病気で苦しんでいるとき、これが本当の自分だと感じた。周囲を気にかけ、とりつくろっている余裕もない姿をさらしてしまった。
しかしいくらありのままの自分がそれだといっても、年がら年中病気にかかっているわけにはいかない。
ニューヨークにいたころ、みんなは、自分の一挙手一投足に一喜一憂していた。それならば、なるべく動かない人間になろう。表情も動作も口数もできるだけ減らしてみよう。誰のこともふりまわすことがないように。
性格というものは、なんらかの刺激によるリアクションの総体なのである。
だったら、外部になんらはたらきかけもしないことは、自分という存在を見極めるいいきっかけを与えてくれるんじゃないだろうか。
そう決めていたのに。
入学して数日もたたないうちに、おかしな三年生の二人組に声をかけられた。演劇同好会のメンバーをさがしているという。
こちらが演劇のプロとして活躍していたことには、まったく無知のようだ。どこにどんな眼をつけたら、こんな人物が芝居に向いていると思うのか不可解至極だが、真剣に必要とされているのなら、ついていってみようかという気になった。これが日本語でいう「ほだされる」、ということかも知れない。
俳優だったことを知らないのは、同級生たちも同じだった。
それでも、気さくに声をかけてくる人たちはわずかにいた。
天才の名をほしいままにした役者ではなくて、ごくごく普通の同級生として、受け入れてくれる人がいる。
ものごころつくかつかないかのころから大人たちにたちまじり、演劇の世界にどっぷり浸かっていたので、その発見は不意打ちをくらったような新鮮なおどろきだった。
と同時に、演劇をいさぎよくすっぱり捨てられない自分も見出せた。もし、演劇同好会に誘われずにいたら、欲求不満がたまっていたにちがいない。
あのとき、母は、無理して演劇をつづけることはないと言った。そのことばにうなずいた。でも。
つづけたかったのだ。本当は。
演技は嘘と欺瞞だと思っていたが、役を演じるときは、たしかにその人物になりきっていた。そこには嘘も欺瞞もなかったはずだ。
他人になりきるときが、嘘っぱちでない自分でいられるなど、妙な話だ。自分というものは、どこにいるのだろう。それを見つけるためには、まだ、離れるわけにはいかない。今の、この場所から。
「おそくなりました。けいこ、はじめましょう」
川原にばったりと倒れていた森川知世が、背後からの淡々とした音声を聞くやいなや、がばりと向き直った。
「瑞樹君。けいこって? え? え?」
髪にたくさん葉っぱをつけたまま、あんぐりと口をOの字にあけっぱなしにして失語している。はじめて飛鳥瑞樹に会ったときも、こんな表情をしていた。
「どうかしたの、眼が真っ赤だよ」
かたわらにいて、知世よりすばやく立ち直った綾小路史緒が、瑞樹の顔を見て指摘した。
「せっとくに、じかんがかかったから」
「説得って、あの監督の?」
瑞樹は無言でうなずいた。
「監督はどうしたの?」
「かえった」
「瑞樹君は?」
おそるおそるといったふうに知世に質問され、少し首をかしげた。それから、英語で少し、話した。そのほうが、きちんと話せるように思えたからだ。語彙を増やすのが面倒なので、素直で直截な告白をした。
自分はアメリカになど行く気はさらさらない。あなたたちと一緒にいたいし、演劇同好会の一員でいたい。あなたたちとでなければ、芝居などしたくない。
知世と史緒は、返すことばがすぐに出ないようすだった。
「……うわあ。直球だなあ。どうしよう……」
感極まったようにつぶやいて、史緒は頬をおさえた。桃色に染まっているが、瑞樹に理由はわからない。
「だめですか」
瑞樹はたずねた。
「だめだなんて! とんでもないよ!」
知世が満身の力をこめて、髪振り乱し首がちぎれるほどぶるんぶるんと横に振った。初対面の日の喫茶店での会話と同じだ。瑞樹が「だめですか」と問いかけ、知世が同じ受け答えをしたのだ。
そこで、ひとつ、あることを思い出した。
「うそついて、ごめんなさい」
「え?」
「えんげきのけいけんがないって、いった」
「そんなこといいのに……」
知世が困った口調になった。瑞樹は、自分もまた困った表情をしているのにやっと気づいた。
これが、本心の自分なのか、と思うと妙に感慨ぶかい。
唐突に、ファンファーレのように高らかに、笛の音が「ぷりー」とひびいた。
春日玲が、そこいらに群生している蒲の葉でこしらえた草笛をくわえてあらわれた。
「ほらみろ杞憂じゃないか。やっぱりあほうだな、しっかりしろよ、森川会長。お前は、天下の大監督に手袋を投げつけたわけだからな。のんきに間抜けっつらを下げてる場合か」
「この顔は生まれつきだよ、悪かったな」
「天からさずかった愚鈍さがさらにひきたてられてるぞ。わかっているのか、飛鳥瑞樹は、世界での栄光を蹴ったんだ。地位も名誉も経済力も恩もある監督よりも、片田舎の地味で愚昧な一高校生にすぎないお前を選んだんだぞ」
「……けんか売っちゃったことになるのかあ。そんなつもりはないのに」
争いごとがいかにも苦手そうな知世は、後頭部を指でかいた。
「そうなった以上は、高く買ってもらえるようにやってみないとね。瑞樹君、あの監督が言ったように、こっちはまったくの未熟者だけどさ。これからもつきあってもらってもいいかな」
「プロポーズみたい」
瑞樹はわずかに、しかし心の底から、笑った。
「ふつつかものですが、これからも、よろしくおねがいします」