ふるふる図書館


第四部

第二話 家族に関する一考察



 一家そろって夕食後のお茶を飲んでいるとき、母から再婚の話を切り出され、小学五年生になる田中史緒(たなかふみお)の胸中は複雑だった。
 父親が欲しいと思ったことがないといえば嘘になる。
 だが、ものごころつかないころから、母と、二歳違いの兄の那臣(なおみ)と、三人で生活してきたのである。今さらほかの誰かが割りこんでくるのか……という感情もある。
 それでも、女手ひとつで息子ふたりを育ててくれた母が幸せになれるなら、史緒は異論をとなえることはできなかった。
 史緒の隣にいる兄も、おそらく同じ心境だっただろう。
「ぼくたちの苗字、変わることになるの?」
 史緒の問いに、母が答えた。
「そういうことになるね。でも、すぐに変えなくてもいいよ。相手もそう言ってくれてるから」
「相手の人、なんていうの?」
「綾小路」
「あ、あやのこうじ?」
 冗談のように美々しい姓に、兄弟で顔を見合わせてしまった。
「田中ってありふれた苗字だから、せめてと思ってあんたたちには、ありふれてない名前をつけたのにねえ。いやあまいったまいった」
 母は肩をすくめて苦笑した。
 まいったのは、息子たちも同様である。むしろ、息子たちのほうがよりいっそうまいっているはずではないだろうか。

 義父になる予定の人物は、みやびな名前から想像していたひととなりとは、徹頭徹尾異なっていた。
 芸術家で、なんとかいう芸名で、舞台を手がけているという。演劇に造詣が深くない史緒は、彼がマスメディアにめったに顔を出さないこともあり、その名を聞いたこともなかった。
 兄も同様だった。もとより、兄は見るもあわれなほど勉強に精を出すことで時間を消費している。学業に関係ないことはまるきり無知だ。
 そのがんばりの背景には、片親だからと後ろ指をさされないようにしよう、という心情があるのだろう、史緒はそう考えていた。自分がそうだからだ。
 礼儀正しく、行儀よく。態度ははきはき、気持ちよく。
 だがしかし、未来の義父に対面した瞬間、みずからに課していたそんな規律は、もののみごとにふっとんだ。
「きみたちが那臣君と史緒君だね? わたしは綾小路真琴(あやのこうじまこと)だ。はじめまして」
 兄弟の手を握って、ぶんぶん振った。
「会えるのを心待ちにしていたよ。うん、聞いていたとおりだ。ふたりとも、ほんとうに賢そうな顔をしている。可愛らしくてりこうで慎ましやかな男の子はいいねえ。実によい。こんな子供たちと一緒に暮らせるなんて、わたしはなんという果報者だ。おのが幸運が怖ろしいくらいだよ」
 うんうん、とひとり大きくふかぶかとうなずいている。
「あ、ありがとうございます。これから、よろしくお願いします」
 勢いにおされっぱなし、のまれっぱなしだったが、史緒はどうにか立ち直っておじぎをした。
 兄はまだぽかんとしている。小心者なのだ。ただでさえ、ここ綾小路邸は、何をすればこんな家が持てるんだ、と首をひねりたくなる豪邸なのである。つつましい住宅団地に育った兄弟にとっては、居心地が悪くてしかたない(そういう質素で素朴なところもまた、綾小路真琴のつぼにどんぴしゃりに大はまりだったことは、あとから知った。別に知らないままでもよかった)。
「おおげさなんだから、まったく。あたしがはじめて、あんたたちの写真を見せたときもこんなに感動してたの。あたしにプロポーズしたのも、あんたたちの父親になりたいっていうんだからね、まったく」
 憎まれ口をたたきつつも、母は笑っている。ものごとにこだわらない、さっぱりした性格だ。百貨店内の、高級ブティックの店員。客とのつながりが重要な仕事に長くついていられるのも、そんな気質が幸いしているのだろう。
 さらに、今回めでたく再婚相手にめぐり合ったのも、この職業のおかげだ。
 同年代の子供より、たぶんに常識的で現実主義者の史緒は、この風変わりな人物になじめる自信はなかったが、母や自分たち兄弟を大切にしてくれそうだ、と思って再婚を祝福することにしたのである。

 義父は、めったに家にいなかったので、顔を合わせても会話がなくて気まずい、という状況にはあまり陥らずにすんだ。
 ともに生活しはじめて一か月たったころ、思い切って「お父さん」と呼びかけてみた。すると彼は満面に喜色を浮かべ、眼には涙を浮かべ、その場で乱舞しかねない様子だった。半端でも尋常でもない笑みくずれっぷりに、史緒は、閉口するやら辟易するやら恐れをなすやら。
「ねえ、あのひとって、どうしてあんなにぼくたちのこと可愛がろうとするんだろ。よくわからない」
 母にたずねると、返事はこうだった。
「あの人はね、たったひとりの息子さんも奥さんも亡くしているんだって。だから、新しく息子ができたのがうれしいのよ」
「それにしても」
 異常だ。あきらかに。
 しかし新婚の母の耳に、夫の悪口をふきこむのもどうか。その足で、兄の部屋に向かった。
「兄さん。あの人、少し変だと思うんだけど」
「どこが」
 兄は、参考書から顔も上げない。常に自室にこもって勉学に余念がないのだ。
「だって、ぼくたちへの態度、父親のものから逸脱してないかなあ」
「お前、父親ってどういうものか知っているのか? 実の父親のことだっておぼえてないんだろう」
「まあ、それはそうだけど」
 お説いちいちごもっとも、とこうべを垂れて神妙に聞きはしたものの。そんな説明ではとうてい腑に落ちない史緒だった。

 決定的な瞬間は、とうとう訪れた。それは、史緒が中学校に上がった年のことだった。
 日曜日、綾小路家に、史緒は友達を連れてきた。同じクラスの女子一名。いわゆるガールフレンドだ。
「すっごいね。綾小路君の家ってやっぱりお金持ちなんだ」
 彼女は、住宅展示会を訪れた主婦みたいなはしゃぎよう。
「ただいま。お母さん、友達連れてきたんだけど」
 リビングに向かいながら声をかけたが、家中静まりかえっている。
「あれ? 誰もいないみたいだ。何か飲み物出すから、ソファにでも座ってて」
 史緒は冷蔵庫から氷とアイスコーヒーを出し、タンブラーに注いだ。ミルクピッチャーとガムシロップも添える。
「あたし、綾小路君の部屋、見たいなあ」
 彼女がねだる。家族が誰もいないときに、自室にふたりきりになるのは多少抵抗をおぼえて、史緒はあいまいに言った。
「ううん。散らかってるから」
「またまた。冗談ばっかり。几帳面でしょ、綾小路君って。どうしても部屋に入れたくないわけでもあるの?」
 彼女がからかうようにほほえんで、史緒の瞳をのぞきこんだ。心臓がぴょこんとジャンプし、急激に鼓動が速くなった。
 どうしよう。ここは、そういう展開に持ちこんでいいのかな?
 史緒は顔をかたむけて、彼女の顔に近づけた。相手は避けようとしない。
「ただいま。お友達が来てるの?」
 入り口から母の声がした。史緒と彼女は仰天し、あわてふためき、磁石の同極のように跳び離れた。
「あらら。ごめんごめん」
 決定的瞬間を見られたかどうか不明だが、まあ、何をしていたかは一目瞭然だろう。
「史緒君!」
 つかつかと、義父がリビングに入ってきた。母とふたりで外出していたものらしい。ガールフレンドには眼もくれず、義理の息子の肩をつかんで揺さぶった。
「きみがこんなことをするなんて。ひどいじゃないか」
 その怒りようときたら、おだやかな表情をかなぐり捨てた大魔神だってこうはいかない。史緒は唖然として、されるがままにがくがく前後に揺れていた。母親に責めたてられるならともかく。父親になんて。しかも血がつながっているわけでもない。新手のコントか、これは。
「きみには、純粋無垢のままでいてほしいんだ。わたしは家族として心配しているんだよ、わかるね?」
 ガールフレンドの前で、義父はとうとうと訴えかける。
「でも」
「デモもストもない。きみは口答えしない素直な子だと思っていたのに。やはり、わたしでは父親と認めてくれないのかね? 再婚に反対だったのかい?」
 何ゆえそこまで飛躍するんだ。
「こんな若いうちから恋愛ごとにかまけていると、ろくなことにならないぞ。お父さんは反対だ。断じて」
 まさか。よもや。こんなことが? これでは、彼女のひとりもできないじゃないか。
 その夜、史緒は兄の部屋に入り、ベッドにすとんと腰を落とした。
「兄さん、桜花高校志望だったよね。ぼくもそこにしたほうがいいみたい」
「男子校に行く気ないんじゃなかったのか」
 机にかじりついていた兄が、弟の人生設計を唐突に聞かされたせいだろうか、さすがに教科書から弟に視線を移行させた。史緒は枕にぼふっと顔をうずめた。悲壮な覚悟がうすれないように。悲痛なおももちが見えないように。涙まじりのくぐもり声が悟られないように。
「ぼくはとうぶん、キヨラカに生きていくよ。それが家族の幸せなんだ」

20050428
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