第四部
第一話 級友に関する一考察
桜花(おうか)高校一年一組、出席番号一番、飛鳥瑞樹(あすかみずき)。
出席番号二番の綾小路史緒(あやのこうじふみお)にとって、彼はきわめて気になる観察対象だった。
以前、生物の授業で魚の解剖をしたときも(魚といっても煮干だが)、一ミクロンのためらいもみせずにざっくざっくとメスでかっさばき、いとも手際よくその身を切りひらいていた。
史緒は同じ班だから、つぶさにそのようすを目のあたりにできた。
その無造作かげんは幼児のように無垢で、いっそすがすがしく小気味よいほどだ。
史緒は、だしに用いる煮干の頭とはらわたを、母に言われて何度となく取らされた。ゆえにカタクチイワシの身体構造はかなりの精度で知悉しているつもりだが、それでも、無駄のないあざやかな瑞樹の手つきを真っ向から凝視し、あまつさえ、うなり声さえもらしてしまった。
やはりこいつはただものではない。そんな思いをあらたにしつつ。
たかが煮干と笑うなかれ。たかがカタクチイワシと侮るなかれ。瑣末とも思えることをすら、きりきりさくさくてきぱきこなす。そのことこそが偉大なのだ。
入学してすぐに行われた学校行事の宿泊旅行で、例によって例のごとく、史緒は、瑞樹や入江彰(いりえあきら)と同じ班になったものだった。
瑞樹の私服はモノトーンを基調にしたありふれたもので、華美でも奇抜でもなかった。全身ミリタリールックや、ヘビーメタルできめている生徒のほうが、よほどインパクトと主張のあるファッションだった。それでも瑞樹は強力な磁場のように人目をひき寄せていた。とびぬけてすぐれた容姿は、何の変哲もない衣服でもみばえよくしてしまうものなのだ。
実際、旅先ですれ違う女性たちは、ちらちらとこちらを見やり、なかには露骨に秋波を送ってくるけしからん不届き千万な不埒者までいた。
健全な高校生男子のイベントに色恋沙汰を持ちこもうとは、何たることかと史緒をいたく憤激させるも、彼女たちはおのがむなしさをすみやかに悟ったようで、そそくさその場を立ち去っていった。
さもあろう。
いくら外見がすばらしく秀麗だからといって、トマトやかつおぶしの気をひこうとするのは徒労に終わるだけだ。
いい気味だ。史緒はひそかに勝ち誇る。一朝一夕で瑞樹と意思を疎通できると思ったら、そうは問屋がおろさないのである。
飛鳥瑞樹についての興味は絶えない。
しかし、史緒にとって不運かつ遺憾なのは、それについて語り合うクラスメイトを見出せないことだった。
彰は、
「うーん。そうなのかなあ、飛鳥君って変わってるのかなあ。でもいい人だよね」
一事が万事こんな調子であるから、こうした話題には徹底して不向きである。
ほかのクラスメイトたちは、はなから瑞樹に苦手意識を持っているのでやはり不適格である。なにせ、用事があるときでさえ本人に直接話しかけられずに、「綾小路、飛鳥に伝えといてくれよ」という具合に言づてをたのんでくるくらいだ。
同じ出身中学だった者も、過去を知る者もひとりもいない。いよいよもって、謎は混迷するいっぽうである。
瑞樹が所属している演劇同好会の人間に話をふってみた。
「うーん。おれもよく知らないなあ、瑞樹君のことは」
同好会会長の三年生、森川知世(もりかわともよ)は頭をかいた。
「でも、彼のことを苗字でなく名前で呼ぶなんて、のっぴきならぬ、あー、いえいえ、ひとかたならぬ関係ではないんですか」
史緒が常日ごろから抱いていた疑問をぶつけてみると。
「うん。あれはね、間違えてたんだ」
「何をです?」
「てっきり、『みずき』っていう苗字だと思ってたんだよ。気づいたときには、もうくせになっちゃったあとでさ」
しかし、いかに知世に相手をそらさぬなつっこさがあるとはいえ、初対面に近い人間にいきなり苗字でなく名前のほうで呼ばれたら、たじろいだりはしないだろうか。少なくとも、史緒はひるむが。
ああ、まわりの奇人変人たちにふりまわされて、明けても暮れても一喜一憂、右往左往、東奔西走するおのがふがいなさが情けない。
生物の授業に、担当教諭が遅刻してきた。史緒の所属する生物学部の顧問でもある、沢野井朝彦(さわのいあさひこ)だ。
年のころなら二十代なかば、史緒たちと十ほどしかかわらないのに輪をかけて、ずいぶん若いご面相のため、学生といっても通用しそうな雰囲気をかもしている。
こざっぱりとした白衣のすそをひるがえし、歩く姿もさっそうと、笑顔にかがやく皓歯もまばゆく、全身これさわやかさとすがすがしさのかたまりといった人物である。
博覧強記の頭脳とわかりやすい話しぶり、生物教師には無用なほど美声のテノール、なんぴとの追随を許さないユニークな授業、といった要素から、生徒たちの評判も上々。
二学年上の兄から、うわさはかねがね聞いていた。
アルコール発酵の実験を名目にどぶろくと清酒をつくったり(醸造法違反だ)、乳発酵の実験と称してヨーグルトをつくったり、脂肪の実験とのたてまえでバターをつくったり。
「へえ、おもしろいな、高校って。今日はどんな実験してきたの?」
まだ中学生だった弟の問いに、兄は説明してくれた。
いわく、味覚の実験で、ふたり一組でおこなったそうだ。
甘み、辛み、苦み、酸っぱさ等を感じる場所はわかれている。
その分布を調べるために、ひとりは目を閉じて舌を出し、もうひとりは味のついた液体を棒で相手の舌にしたたらせるというのがその内容だった。
「ふうん。なんだか、それってちょっと恥ずかしいね。目をつぶって舌を出すなんて」
至って健全なお子さまたる史緒は、何の作意もなくそうもらし、回想にひたっていた兄が突如鼻をおさえて上を向き、空いた片手でうなじをとんとんたたいていたのを不審に思えど深く追及することもなかった。
今となってはその理由も、兄とペアを組んだのが誰かも、実に正確に推測できるのだが。
それしきのことで、鼻孔から血液を噴射するとは、二十世紀の終焉をひかえたこのご時世に特別天然記念物なみの希少価値を誇る純情素朴な青少年なのか、煩悩と妄想てんこもり、今にもはちきれんばかりになっているかのどちらかなのに間違いない。
そんな(一方的に)甘酸っぱい青春の一ページまでも提供してくれた沢野井氏だが、彼を語るに欠かせない最大の要素がある。
大の解剖マニアなのである。
いそいそとした足取りで、生物室に集う生徒たちの前に現れた教員は、遅れてきたにもかかわらず、悪びれもせずに莞爾と笑んだ。
「実はですね、学校に来る途中、道路に車にひかれて死んだ犬がいまして。ここ最近雨ばかりですからね、みなさんくれぐれも気をつけてくださいね」
ここまではよい。教育者として、まず及第点をあげていいだろう。
沢野井氏は、両のお目々にきらきらとお星さまをうかべた。嬉々とした、少年のようにけがれなく無邪気なさまに、展開が読めた史緒はまなざしだけで天井をあおいだ。
いちいちうっとりするほどここちよい声が、次なる語をつむいだ。
「で、その犬の死体なんですが、かなりきれいな状態だったので、保健所に行って手続きしてひきとってきました。
解剖するには絶好の機会ですからね。めったにできるものじゃあないですよ」
予感的中。
なにしろ、生命のメカニズムの巧緻さも、解剖した生物の内蔵の美しさも、わけへだてなく平等に、陶然として語る御仁である。
博愛主義といや聞こえはよいが、ことほどかように、好意をいだく対象がおおらかすぎる。美意識のストライクゾーンが広いにもほどがあるってものである。
どよめきがさざなみとなって同級生たちの間をつらぬいて走るなか、史緒は、そばに腰かけていた瑞樹を盗み見た。
相も変わらずつまらなそうな、無愛想に無表情。
ちょっと背伸びしたいお年ごろな若人が、ニヒルでクールを気取っているのとは格がちがう。月とすっぽん、ちょうちんにつりがねだ。てらいや気負いはみじんもない。
その態度は、わずかでも狼狽したこちらがくちおしくなるほどだ。
史緒は全精力を結集して、おのが精神力のたてなおしをはかった。日本男子たるもの、意地と見栄と根性だ。
「おひるの前後じゃなくってよかったねえ。さすが段取りに抜かりがないね。ごはん食べられなくなっちゃうもん。ハムとかソーセージとかさ」
感嘆と安堵にたえない口吻で、さらりと自然にまろやかに、怖ろしいことを言ってのける彰も、よほど大物なのかも知れないが。
鼻と口をおさえて、史緒は耐えた。
実験室を支配するのは、換気扇を回しても追いつかないほど強烈な匂い。恩師の華麗かつ流麗なメスさばきに見入るゆとりも消えうせようというものだ。
「ほら、ね、きれいな骨格でしょう。実にむだのない、美しいかたちをしてますねえ。あとできれいに洗って再現して、生物室に飾らなくては」
生物部員はいつでも拝めるというわけだ、望むと望まないとにかかわらず。ご対面のあかつきには生命の神秘にはるかな思いをはせることができるかどうか、史緒は我が身を深く深くあやぶんだ。
この綾小路史緒の顔色をなからしめるのは、そうとうの人物だ。
瑞樹を横目で盗み見た。
沢野井氏のいる中央の机に、生徒たちは集まっていたのだが、史緒と瑞樹は自然に隣どうしに立っていたので。
端整な横顔がそこにあった。
視覚と嗅覚をはげしく翻弄するカオスとは、まるで無縁の静謐なたたずまい。
なぜだか、史緒は、自分でも思いがけないほど、心底からほっとしたりしたのだった。
この気持ちをどう説明したらいいのか。
げに不可解なのは、瑞樹でなく、自分かもしれない。史緒から、未知の領域をひきだす飛鳥瑞樹、おそるべし。
飛鳥瑞樹の研究は、まだまだ尽きるようすはない……。