ふるふる図書館


第三部

第七話 苦心惨憺の日曜日



 どたどたと階段を昇ってくる足音。休日の惰眠をこころよくむさぼる滝沢季耶の部屋のドアが、ばんと勢いよくひらいた。もちろんノックなし。
「ほら季耶、電話だぞ。とっとと起きろって。ときー」
「何だよう、うっさいなあ。朝っぱらから」
 寝ぼけてぶつぶつつぶやく季耶のみぞおちに、かかと落としが降ってきた。情け容赦のかけらもない不意打ちをくらって、季耶はしばらく息も出ない。
「兄ちゃんに、そういう口をきいていいのかなあ? んん?」
 季耶は涙にかすむ眼で、双子のかたわれ、滝沢陽耶を見上げた。
「二時間二十分早く生まれただけだろ。一卵性なんだから、尊い命を授かったのはほぼ同時だろーがっ」
「ほほー。なるほどな。ならばこの場で実力で、どちらが上か決めようじゃないか」
 宣戦布告をするが早いか、季耶に猛然と襲いかかる。
「うぎゃあああ!」
 数秒後、季耶の絶叫が滝沢家とその隣近所をどよもした。
「あき、とき! 近所迷惑よ。騒ぐのも大概になさい! まったく、高校生にもなって!」
 階下からとんでくる母の叱責に反応するゆとりすらなく、ベッドの上で悶絶してしまう。
「……このばかたれ。耳をなめるな、噛みつくな!」
 いつの間に、陽耶は新手の攻撃法を会得したとみえる。その手だれなようすに、季耶はさらに自尊心を傷つけられた。もしかして、かなりの場数を踏んでいるのか、この兄は。
 陽耶が常に季耶の恋路のじゃまをするのは、弟をとられたくないというやきもちからではないか、と以前学校の先輩にからかわれたが、真相は別のところにあるのではないか、との一抹の疑念がよぎる。
 つまり、弟に差をつけられたくないという対抗意識である。
「You lose. へん、ざまあみろ」
 陽耶は冷然と言い放ち、電話の子機をベッドに放り投げた。季耶はうかつにも、誰からかかってきたのか確かめるのを忘れて保留を解除した。
「あ、ときやん? やっとつかまったよ。昨日も遅くまで留守だったでしょ」
 女子だ。それで陽耶の不機嫌がマックスだったのか、と合点がゆく。
「ええと、誰?」
「江利。中島江利(なかじまえり)だよ。中三のとき同じクラスだったでしょ」
「あー……」
 うなったっきり、季耶は次の言葉がつづかない。すこぶるいやーな予感がした。
「あたし、あきやんに聞いたんだよ。ときやん、つきあってる子がいるって」
「はい?」
 はて、何のことやらとんと記憶にございませぬなあ。などという政治家じみた抗弁は通用しないだろうオーラが、受話器の穴から瘴気のようにたちのぼっている。
 季耶は陽耶をちらりと横目で見た。中島の声が聞こえているらしく、横を向いて口笛を吹くふりなんぞしおってごまかしている。くそう、腹の立つ。どうせ与太でも飛ばしたんだろ。
「とにかくね、その子に会わせてよ。今日の午後三時、駅の本屋の前で待ってるからね」
 がちゃん。一方的に電話が切れた。いや、ぶちっ、か。昔懐かしの黒電話じゃないんだから。いやいや、んなこたどーだっていい。
 季耶は陽耶をゆらりと振り返った。
「お兄さま。これはどーゆーことかしら? この愚弟にもわかるように説明してくださらないこと?」

 季耶は男子校である桜花高校へ進学したが、陽耶は共学である若葉(わかば)高校に入学した。陽耶のほかにも、出身中学の同じ生徒が何人かいて、そのうちのひとりが中島江利である。
 昨日の放課後、偶然陽耶は中島と学校で会い、話をしたという。
「でさ、中島が、まだお前に未練たらたらなんだよね。だから手っ取り早くあきらめてもらおうと、季耶にはつきあってる人がいるって言っておいた。な、弟思いのいい兄だろ?」
「恩を売って事実を隠蔽するんじゃない。お前の罪状は不実の告知だ」
 きっとねめつけてやったが、なにぶんパジャマのままなのでいまいち迫力に欠けるか。
「嘘なんかこれっぱかしもついちゃいないぞ、心外な。おれが言ったことを忠実に再現しよう。
『季耶はね、今つきあってる人がいるんだよ。ああ、彼女っていうのじゃないみたいだけどね。すっごく可愛いの。素直で気立てがよくて、ちまっとしてて、細っこくて、色白で、お肌つるつるで、顔が小さくて、髪が茶色くて、眼が大きくて、まつげ長くて。おまけに成績優秀、学年首位、泣く子も黙る偏差値七十。名前は知世ちゃんっていうんだけどね』」
 おーいこら、ちょっと待て。季耶は床にうずくまって髪をかきむしった。
「なんてこと言ってくれたんだ、お前」
「だってさー。微に入り細にうがち具体的に話しておかないと、信用しないだろ、あいつ」
「だからって」
「そんなすてきな子がいるのなら、あたしなんかの出る幕じゃないわ。身をひかなくっちゃって思うかも知れんじゃないか」
 陽耶が、妙なしなをまじえて言う。おれの顔でそういうことするな、けったくそ悪い。
「ひきぎわみごとに鮮やかに、いさぎよく撤退するやつだったら、苦労はないっつーの。あきが手放しで森川さんをたたえるから、あいつの対抗意識があおられたんだろ?」
「おおー、慧眼。ささ、早く森川さんに連絡したんさい。約束は三時だったよな」
 そこまで容姿を詳しく説明された以上、女友達に代役をたのむわけにはいかない。しかし、陽耶の話はでたらめだったと言えば、また中島にしつこく追い回されるのは明々白々。せっかく別の高校に進んだというのに。
「あ、なんならおれが、お前になりすまして行くよ。うん、それがいいかな」
 完全におもしろがっている。無責任な。そんなことをすれば、事態がいよいよ混迷の一途をたどるだろうが。
「ううー。おぼえてろ。ちくしょうめ」
 うめくように呪詛の言葉を吐き出しつつも、季耶は桜花高校の先輩たる森川知世に電話をかけたのだった。

 知世とは、地元の駅前に二時半に待ち合わせをした。知世のひきいる演劇同好会の活動が、中間考査に備えて休みだったのだ。
 律儀にも時刻ぴったりに改札口に現れた知世は、女子が泣いてうらやみそうな足腰の細さを、さらに強調するようなスリムなパンツに、だぼっとしたニットといういでたち。
 まずは、ノースリーブでなくてよかった。上半身から臀部にかけての体の線が隠れるような服というのもありがたい。
 しかし、襟ぐりがかなり大きくあいている。鎖骨はきれいでよいのだが、首があらわになっているのはかんばしくない。たしかに、男子にしてはほっそりした首だが、念には念を入れておかにゃあいかん。
「やあ、滝沢君。けっこう学校から遠いところに住んでるんだね」
 屈託なくほほえんで、知世が手を振る。
「すみません。遠路はるばる。こんなところまで来てくれたから、お礼しますね」
「え? そんな悪いよ」
「いえいえ、お気になさらず。さ、さ、行きましょう」
 季耶は知世の腕をつかんで、ずりずりひきずるようにして駅ビルへと入っていった。

 目的地は、若い女の子に人気のブランドを扱う売場。
「ほらほら、遠慮しない」
 季耶はふんわりしたおおぶりの水色のスカーフを手に取って、知世ののどにあてがった。
「どう? これ。いい感じだと思うけど」
「う、うん。そうかな」
 知世があいまいな返事をすると、すかさず店員、ほめちぎる。
「ええほんとによくお似合いで。こういったパステルカラーは着こなしがむずかしいんですけど、お客さまはお肌がおきれいで、抜けるように白くていらっしゃるから、とってもよく映えますよ。プレゼントですか?」
「ええまあそんなとこ。うん、これください」
「ありがとうございます」
 愛想よく店員がレジに向かう。
「あ、いいですよ、包まなくて。つけていきますから」
「それじゃあ、値札お切りしますね」
 会計をすませると、季耶は店内の姿見の前に知世を立たせ、スカーフを巻きにかかった。
「じっとしてて、先輩」
「えっ、ほんとに今つけるの?」
「おれが選んだスカーフ、先輩がつけるところ、見てみたいんですよ。ねっねっ?」
 しかし季耶は、スカーフの巻きかたに通暁していない。西部劇のカウボーイか赤ん坊のよだれかけになってしまう。あちこちひねくりまわしていると、知世が手をのばした。
「貸して」
 知世は、季耶が想像もつかないような方法で折りたたみ、くるくるっと首に巻いて、小粋に結わいた。不器用だのどんくさいだのとろいだの言われている知世の、意外な一面だ。
「上々ですよ」
 まったくおせじからでなく、季耶はぱちぱち拍手した。
「ありがとう。いいのかなあ? だって勉強を教えにきただけなのに、こんな」
 そう、知世にここまで出張ってもらう口実として、試験まぢかなのにどうしてもわからないところがある、自分と兄の家庭教師になってくれ、さもないと単位が取れない、と電話口で嘆願愁訴したのだった。
「いいんですよ。おれがあげたいって思ったんですから。あはははは」
 スカーフ一枚分の出費ですんで、むしろありがたいくらいである。最悪、服を一式買うのもやむなし、との覚悟を決めていたのだから。
 さて、時間も押し迫ったことだし、そろそろ真相を話さねば。

 待ち合わせ場所に到着した。
 案の定、話を聞くやいなや知世はぶうたれた。
「んもー。何だよそれは。陽耶君も、どうせなら春日の話すればよかったのに。あいつの名前だって女の子で通るじゃないか」
「あわわわ。恐ろしいこと言わんでください。師匠だったら、さまざまな意味で無理ですってば。つるかめつるかめ」
 慄然として、季耶がかぶりをがくがく振っていると、中島江利が近づいてきた。
「こんにちは、ときやん」
 タートルネック、ノースリーブのカットソーに、ミニスカートにパンプス。どうにも気合が入りまくっている。髪も、こてでしっかりカールさせていた。学校では三つ編みお下げにリボンをつけているそうなのだが。
 知世がかるく眼をみはった。さもあろう、彼女の顔だちは十人並みより上位をキープしているのだ。
 だが、いかんせん、ねっとりべったり、粘着質な性格だ。怪奇映画に出演できそうなほど。うっかり触ると糸ひきそうだ。見かけで判断してはいけない。
「よう、中島。久しぶり」
 季耶が紹介する前に、中島は知世にすいっと寄った。
「中島江利です。今日は、無理言って来てもらって、ごめんなさい」
「はじめまして。森川知世といいます」
「立ち話もなんだから、お茶でも飲みましょうか」
 ひと目見ただけで帰ろうという心づもりは毛頭ないらしく、中島は先に立って手近な喫茶店に歩いていく。ああ、心臓に悪いったら。寿命がちぢんだらあのばか兄のせいだ。

 重苦しくも会見がつづく。
 ごめんよ先輩、せっかくの休日にこんなことにつきあわせて。
 季耶は胸中でぱんぱん両手を合わせ、隣に腰かけた知世に眼をやり、どきっとした。
 足を広げて座っちゃまずいだろ。あわてて知世のひざをつんつんつつく。
 知世は不満げに季耶を一瞥したが、素直にももをくっつけた。まつげを伏せ、両手でタンブラーを抱えるようにして、アイスティーのストローをくわえた。顔は笑って心はすねている、の図だ。
 ううむ。つくづく愛くるしいなー。もし本人にそう告げたら、激しく照れるか激しく怒るか、どちらかだろうけど。と、頬をゆるませている場合じゃなくて。
「あたし、見てたんだ、ずっと」
 向かい合った席に座っていた中島が、ふいに話題を変えた。
「そのスカーフ、さっきときやんが買ったものでしょ。あたしも早めに来て、駅にいたんだ」
 あちゃー。小細工している姿を目撃されていたとは。いやはやなんともはや。
 中島にとっては、あてつけ以外の何ものでもないだろう。季耶のプレゼントをこれみよがしに見せつけて、恋敵が対面の場にのぞんでいるということは。
「なんだか、すごく仲よさそうだった。今だってそうだし。やっぱり、あきやんの言ってたこと、本当だったんだね。てっきり、あきやんにかつがれたんだと思ってた」
 いえいえ、ご明察です。
「もう、うなじにそういうの、つけちゃう仲なんでしょ」
 げげ。これは今朝の陽耶のしわざだ。しまった、跡が残っていたとは。くそう、陽耶のやつめ、どこまで祟る気だ。
 知世がまじまじと季耶の襟足をのぞきこんだ。いかん、知世がつけたと誤解されてしまうぞ。とはいえ、事実を話すのも。
「これは虫に食われたんだよ」
 実の兄を虫扱い。だが、中島は季耶の反駁を黙殺した。
「ごめんね、あたし帰る。お金、ここに置いておくから。どうぞお幸せにっ」
 中島は千円札をテーブルに叩きつけ、席を立った。
「あ、お釣りが」
 知世も立ち上がった。ああもう、追わんでよろし。中島は、季耶と知世の背後にある戸口に向かおうとした。
 しかし中島は、慣れないパンプスなど履いてきたものだから。けっつまずいてバランスをくずし。
 知世の胸の中にまともに倒れこんだ。あーあ。
「だいじょうぶ?」
 中島は、ぱっと知世から離れた。両眼と口をおおびらき。
「えっ。ええっ。男の子? だよね?」
 ちっ。ばれちまったか。季耶は中島のでかたを待った。「男どうしでつきあってるの?」、もしくは「もしかしておかまなの?」という台詞が飛び出すかと思いきや、さにあらず。
「ほんとに? やーん。すごーい。こんなきれいな男の子いるのお? 芸能人みたい」
 ハイテンションにはしゃぎまくってきゃぴきゃぴ(死語)している。どうだろうか、この舞い上がりぶり、浮かれぶり。先刻、しっかり抱きついてしまったことも拍車をかけているらしい。
「ね、このあとどこか行かない? ふたりで。いいでしょう?」
「えっ、滝沢君は?」
「いいのいいの、だってこの人、まったくあたしに気がないんだもん。そろそろ見切りつけてもいいかな、なんて」
 おお。まるく収まり万々歳、めでたく一件落着か?
 そりゃあ、中島江利は。のしつけて、奇特なかたにさしあげたいと思っていたが。目の前で、こうもあっさりあっけなく、心変わりされるのはいかがなものか、滝沢季耶よ。
 どんなに苦手な相手とはいえ、中島とは、ふたりでわかちあったかけがえのない思い出があるはずじゃないか。たぶん。
「中島、お前失敬だぞ。何考えてんだよ」
 季耶は、矢も盾もたまらずふたりの間に割って入った。
「いくら森川さんがスレンダーだからって、男だなんて勘違いして」
 ありゃりゃ? こんなことが言いたかったんだっけか? まあいいや。
「たった今言ったよな。おれに見切りをつけるって。もう二度と、おれと森川さんを困らせるような真似はするなよ。行こう、森川さん」
 めずらしい季耶の逆上ぶりに愕然と突っ立っている中島には眼もくれず、知世の二の腕をつかんでその場を離れた。
 店を出て、中島が追ってこないことを確認し、季耶はふうっと肩で吐息をついた。しめしめ、ことはうまく運んだみたいだ。否、ひとつ課題が残ってた。
「とーきーやーくん」
 知世が莞爾と呼びかける。しかし眼はひとかけらの笑みも含んじゃいない。
「よかったねーえ。万事解決したところで、これから夜まで、勉強しごいてあげるからね? 陽耶君ともども。手取り足取りみっちりと。泣きごとたれても知らないよ? そっ首洗って覚悟してなね」
 すごみと気迫がひとあじ違う。季耶が師匠とあおぐ春日玲より、見なれてないぶんよほど怖い。しかし、窮鼠猫を噛む。えいこうなったら。
「本当にごめんなさい、先輩。迷惑かけて」
 したてに出て、殊勝に謝り怒りをそぐ。さらにだめおし。
「どうしてもあいつに先輩を取られたくなくて、あんなことを言ってしまったんです。この意味わかってくれますよね?」
 うるんだ熱っぽい視線を送ると、知世の顔にわずかに動揺が走った。よしもうひといき。
「先輩は、おれのこと、ただの後輩だって思ってるんでしょ? でも、おれは違うんだ」
 これでとどめ。有無を言わせず知世をひしと抱きすくめる。
 おや、すごくいい匂い。気分がちょっぴり高揚する。ささやかないたずら心を起こしてみようかなー、なんちゃって。
「うわっ、こらこら、昼日なかの天下の公道で何をするんだ破廉恥星人。離せと言うに」
 取り乱すあまり頭のねじがふっとんだのか、知世がすっとんきょうな抗議をしながら、背中をぽかぽか叩いてくる。ふはははは、人目があるのがポイントなんじゃないか。
「いいや、離さない。先輩が機嫌をなおしてくれるまで」
「なおします! ただちにすぐさま! なおしますから堪忍して!」

20040621
PREV

↑ PAGE TOP