ふるふる図書館


第三部

第六話 夜間飛行の美術室



 ぼくの名は、小園深晴(こそのみはる)。二年生という立場ながら、桜花高校の美術部の部長という地位についている。
 現在愛用しているのは、ゲランの「フォル・ド・ニュイ(夜間飛行)」。サン=テグジュペリが一九三二年に夜間飛行を成功させたことに由来する、歴史の深いパルファンだ。
 部室を兼ねている美術室でまぶたを閉じ、昨夜、同居している三年生の森川知世さんが向けてきた笑顔を思い出す。
「ね、小園君は、いつもジバンシイの香水を使っているの?」
 そうたずねられたとき、ぼくは雷のごとき衝撃にうたれて、知世さんのはしばみ色の瞳を凝然と見つめたものだった。
 知世さんが、ぼくの使用しているパルファンの銘柄をご存じだったとは。トイレの芳香剤と間違える人だと思っていたのに。
 ああ、ぼくの眼に狂いはなかったと、諸手をあげてミューズ(薬用せっけんではない)に快哉を叫んだ。やはり知世さんは、美を愛する、美の世界の住人にふさわしい人なのだ。
「お詳しいんですか?」
 ぼくの問いに、知世さんは肩をすくめた。
「いとこがね、海外みやげにしょっちゅう買ってくるんだ。子供のころからだから、いい加減おぼえちゃうよ」
 知世さんは、数え上げつつ細い指を折り曲げた。
「ゲランの『ミツコ』に『夜間飛行』、ジバンシイの『ランテルディ』、シャネルの『ココ』、コティの『シプレー』。ほかにもいろいろ。
 でも、なかなか使いづらくってね。小中学生のときは学校につけていくわけにはいかなかったし。高校生になったら、この家に住むようになったから、ますます機会が減っちゃって」
 ぼくの下宿先の女主人、七瀬玖理子さんは庭園を持っていて、花やハーブを栽培している。ポプリやサシェといった、天然香料をつくるのが得意なのだ。
 家の中や衣類には、常に自然のかぐわしい芳香がただよっている。なるほど、香水の出る幕は少ないだろう。
「使わない香水をトイレの芳香剤にしていたら、いとこにばれて、こっぴどく怒られたんだ。そんな子に育てたおぼえはありませんってさ。
 だから、よかったら、小園君もらってくれないかなあ。残りもので恐縮だけど」
 ぼくの胸はアスペンの葉のように、うちふるえた。どのような経緯であれ、知世さんからパルファンを贈っていただけるのだ! このような幸運にめぐまれる人物は、めったにいるものではないだろう。
「やっぱり、ジバンシイがいい?」
「いえ、いえ、くださるのでしたら何でも」
 高まる鼓動を抑えつつ応えると、知世さんは、ぼくを自室に招じ入れた。
「一回、試してみて。実際につけてみないとね。どれがいいかな」
「では『フォル・ド・ニュイ』を」
 知世さんは、キャビネから小さなびんを取り、ふたを開けた。エキゾティックでゆたかで濃厚な香りがたちこめ、ぼくたちを閉じこめた。
「袖をまくって」
 知世さんはぼくの手首をとり、パルファンをつけてくれた。知世さんの顔を、これほど間近で見るのははじめてだった。きめこまかな大理石の肌、目もとに淡い影を落とす濃いまつげ、きつく結ばれることなくゆるくほころぶ、ベルベットの唇。
 かぐわしい花のような唇に、ぼくは吸い寄せられるのだ。パルファンよりもはるかに甘い香りに迷わされ、窒息しかけた、哀れな一匹の羽虫のように。
「先輩……」
「ん? 何? 気に入らなかった?」
 知世さんは、ぼくの心情などまったく気づいていないかのようにふるまう。本当はわかっているはずだ。ぼくのこの動悸が。知世さんが触れている手首の脈が速くなり、香気がますます強くただよい出しているのだから。
 ああ、なんてつれない、意地悪なひとなのだろう。天使の顔で、ぼくを翻弄するのだ。
 知世さんがひとこと諾と言ってくだされば、手に手をとって、何もかもをなげうって、未知なる美の世界へと飛びこむ覚悟があるというのに。
 ぼくはせつなく嘆息をもらした。
「どうかなさったのですか、部長?」
 一年生の部員が心配そうな顔を向けていた。そう、今は部活動のただなかだったのだ。ぼくは痛々しくもけなげにも、自分を現実へとひきもどした。
「美の世界について、考えていたのだよ。深遠な迷宮を旅していたのだ」
 こたえつつ、額にたれた髪をかきあげた。
「すごいですねっ、部長。ぼくなんかにはとてもとても」
 賛辞を聞きながら、ぼくはふと戸口に視線を向けた。そこにいたのは。
「おお、滝沢君じゃないか。とうとう、ぼくの活動を見に来てくれたのだね」
 ぼくはイーゼルの前から立ち上がり、滝沢季耶君を出迎えた。
「えっと。おれは、単なる通りすがりなんだけど」
 以前、ぼくにあんなことを言った手前、照れているようだ。ふふ、なんて可愛いのだろう。寛容なぼくは、わだかまりなど何も持っていないのに。
「さあ、どうぞ、奥のほうに入りたまえ」
 美術室には、デッサンや静物画にもちいる種々雑多なものが置いてある。石膏像、ガラスびん、貝殻、布、流木等。
 また床には、さまざまな油彩のしみで水玉模様がびっしりと描かれている。美術の授業をとっている生徒が、イーゼルの位置のめじるしとして、各自マーキングするからだ。
 テレピン油のにおいが、鼻腔をつんと刺激する。
「すまないね、こんなにごったがえしていて。遠慮なくかけてくれ」
 滝沢君は、まじまじとぼくの姿を見て、唐突にぷーっと吹きだした。
「そのかっこう、料理屋か、保育園児みたい」
 制服を汚れから守るため、スモックを愛用していた。割烹着や、保育園の制服に見えないこともない。だが、おとなの余裕を持つぼくは、もちろんそんなことで怒りだしたりしない。
 滝沢君は、ぼくのスケッチブックを指してたずねた。
「中、見てもいい?」
「もちろんだとも」
「あ、森川先輩か。やっぱりプリティーだなあ。それからっと。七瀬さんに、春日先輩に、飛鳥君だね。あれ? これは……」
 ページをめくる手を止め、滝沢君は戸惑いの色をありありと瞳にうかべた。
「ふふ、おどろいたかい? きみの絵だよ」
「このラインナップでいうと、場違いじゃないのかな?」
 ぼくのスケッチブックにおさめられているのは、ただのスケッチではないのだ。ここに描かれているのは、ぼくのきびしい審美眼にかなった人物たちだ。
 彼らは、この白く四角い空間の中で、自由自在にポーズをとり、さまざまな花と衣装で美々しく麗々しく身を飾り立てているのだった。
 あるときは奔放に、あるときは悩ましげに。
「どうしてだい。どうしてきみは、自分の中の美を認めようとしないんだい?
 眼をそらせているから、わざとちゃかすようなことをする。でもそれは、とりもなおさず、きみが美の世界に魅せられている証なんだ。
 怖いのかい? そうだね、ぼくだって最初はそうだった。美の神の宣託をきいたとき、おのが使命の重さに、ふるえおののいたものだ。さあ、恐れないで。ぼくがついていてあげるよ」
 熱意をこめてかきくどき、滝沢君の肩を抱き寄せた。部員たちが、水を打ったようにしずまっている。けわしい茨の道をすすむには、相応のこころがまえが必要なのだと、ぼくは彼らに身をもって示しているのだった。
 滝沢君の瞳がきらめいた。ああ、ようやく通じたのだ。ぼくの真摯な情熱が。言葉に出さずとも、双眸が雄弁に物語っていた。
「ありがとう。そんなにまでして、おれのことを」
 滝沢君の声がかすれた。手をぼくのそれに重ねてくる。どよめきが周囲をつらぬいて走った。
「まさか、あの、滝沢が?」
 感極まったぼくは、滝沢君を抱擁して、それから……。
 そのとき。
「お取りこみ中悪いんだけどさ」
 滝沢君が言った。しかし、耳もとではない。声は背後から聞こえてきた。
 ぼくはふりかえり、眼をみひらいた。もうひとり、滝沢君が歩いてくるではないか。これは美の神から、試練をのりこえたぼくへの賜物か。
 歓喜に彩られたぼくの前で、あとから現れた滝沢君は、渾身の力をこめて、もうひとりの自分をキックした。
「ここで何やってるんだよ。おれの制服のスペアまでかってに持ち出して」
「陽耶(あきや)君、だよね。うちに編入したのかと思ったよ」
 水晶の珠を振り落とすような、ひびきのよい声がつづいた。これは知世さんだ。
 椅子ごと蹴倒され、胸にくっきりとうわばきの底のもようをつけた滝沢君が立ち上がり、知世さんには愛想よく応じた。
「いやはや。そのつもりだったんだけどね、森川さん。敵もさるもの、ひっかくもの。母親が頑として首を縦に振らなくて。そんな理由で転校させられるかって、どえらい剣幕なんですよ。さすがは、おれと季耶を生んで育てた人物だ」
「で、またおれのふりして悪だくみでも? 今、おれにすごーく不利な状況を展開させていたように見えたけど。校内新聞の紙面のトップを飾るような。おれが来なかったら、いったいどこまで行き着いてたんだよ?」
「確証もなしに、兄を誹謗中傷する気か? 眼に見えることがすべてじゃないぞ」
「どの面さげて言えたものやら、あつかましい」
「やれやれ。まったく可愛げのない弟だ。兄ちゃん悲しいよ。別にお前の名前なんか騙ってないぞ。滝沢君と呼ばれて、訂正しようがないだろ、本名なんだから」
 どうやら先に現れたのは、ぼくの知っている滝沢君の双子の兄で、陽耶という名前らしい。
「どーもどーも。お騒がせしました」
 季耶君は、かたわれを紹介しようなどいう気はさらさらないらしく、陽耶君を強引にひきずった。ふと、開いたままのぼくのスケッチブックに眼をとめる。
「どしぇえええええ。何じゃこりゃあ~」
 奇妙奇天烈な叫びに尾をひかせ、季耶君は一メートルほど飛びすさった。すみにまとめて立てかけられていたイーゼルにぶつかり、がらがら音を立てるにもかまわず、ぜいぜい肩で息をする。
「よくまあ、平然と見ていられるな、あき」
「別にい。これを描かれたのはおれじゃないしい」
「顔かたちは瓜ふたつじゃないか」
「お前、内緒でこんなモデルやってたのか。衝撃的だなあ。どきどきしちゃう」
「やってないやってない」
「いったいなにごと?」
「あああ、見てはだめです!」
 季耶君の制止もあらばこそ、知世さんは、いぶかしげにスケッチブックをめくった。
「うっ」
 ひとことうめいて絶句した。朱を刷いたように頬が染まる。と見るや、顔を覆って、美術室から一目散に出て行った。
 なんておくゆかしい、はにかみやさんなのだろう。真に美しい人は、はじらうさまもなまめかしいのだ。またもやあらたな着想がインスパイアされるのを、ぼくはひしひしと感じていた。
 ぼくの名は、小園深晴。美を探求する長い長い旅路は、未来永劫につづく……。

20040621
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