ふるふる図書館


第三部

第五話 急転直下の邂逅劇



 春日玲は、中学校に上がる前、「当たり屋」をしていた。
 何の商売なのかと、森川知世あたりなら首をかしげるかも知れないが、別に物品やサービスを商うわけではない。走っている自動車に事故を装ってわざとぶつかり、賠償金をゆすり取るというものである。
 新緑まぶしい初夏の午後。玲は街角でターゲットをえらんだ。白いメルセデスだ。
 大切なのは、タイミングと反射神経、思い切りのよさ。大けがをしたら、元も子もない。
 時機を見計らい、曲がり角からダッシュでつっこんだ。ボンネットの上を派手にころがる。
 うまくいったと思った。どこにも手落ちはなかったはずだ。
 実際、黒服に白手袋の運転手は、痛そうに顔をゆがめる玲を見て、すっかり青ざめてしまっていた。それなのに。
「演技はおよしなさい、坊や。骨折も捻挫もしていないでしょう?」
 見破られた。はじめての展開だ。
 車を降りてきた、高価そうな和服を着たその女性は、玲の瞳をのぞきこみ、歯切れよく凛とした口調で厳しく叱りとばした。
「少しもためらいのなかった度胸は買うけれど、こんなことをつづけていると、今に死んでしまうわよ。どうしてそんなに自分を粗末に扱うの」
 玲は無言で彼女の顔を見つめかえした。無数のしわがあったが、活力にあふれ、華やぎと品格があり、若々しくさえ感じた。
「こんなところでは話もできないわ。さ、いらっしゃい」
 どんなにしゃきっとしていても、彼女は年配の小柄な女性だったから、ふりきるのはたやすかったに違いない。だが車に押しこめられても、玲は抵抗しなかった。木偶のようにされるがまま、シートに座った。
 連れていかれた先で、どのような処遇が待っているのか。家か学校に通報されるのだろう。玲には、どうでもいいことだった。
 着いたところは、ひとことで表せば「豪邸」だった。背の高い大きな門をくぐり、家に到着するまで車でも数分かかった。玄関まで立ちならんだ樹木が、日光を涼しげにさえぎっていた。
 何を話しかけられても、玲は表情をぴくりとも変えず、あらぬかたを見やって聞き流していた。
 これをやられると、多くのおとなはおおいにいらだつ。次いであきらめるか、ときには手を上げることもあるのだが、今度の相手はやたらしんぼう強かった。
 使用人を退け、階段をのぼって、彼女は手ずから玲を一室に案内した。私室らしかった。大きな窓には、重厚な緋色のカーテンが下がっていた。浴室も、洗面所もついている。
 命じられ、玲は浴室に入って全身を洗った。桃色大理石の浴槽、金色のカラン、薔薇の香りのせっけん。たいそう豪奢なしつらえだが、玲に感銘や感慨を与えることはできなかった。
 広大な浴室を出ると、今まで身につけていた、色あせて袖口や裾口がのびきった安手の衣類はなくなっていた。
 かわりに、清潔な香りのする白いバスローブが置かれていた。肌触りがよく、上質なものだとすぐにわかった。それをまとって、脱衣所を抜けた。
「おかけなさい」
 革ばりのソファに腰をおろしていた女性が、隣を示す。玲は唯々諾々としたがった。この姿ですぐさま逃亡をはかるより、相手のでかたを待つほうがりこうだろう。虚空に視線をただよわせながら、彼女の気配をうかがった。
「ずいぶんやせていること。お食事はとっているの?」
 翡翠の指輪をはめた手が、親しみをこめて玲の体に触れた。
 やっぱりそういう展開になるのか。落ち着いた態度を取ろうと努力しつつ腰帯を解いた。
 十一歳ですでに、そういう発想をする日本人小学生がいることもどうかと思うが、おとなびた外見も手伝って、玲はすでに、「そういう」世界に片足以上つっこんでいたのである。
 いつもの手順を踏もうとする玲の手を、彼女はおさえた。肩からすべり落ちたローブを着せかけ、玲のあごをとらえて上向かせた。
「高貴な貴公子のようなお顔をしているのに。似つかわしくないことをするのね」
 悲しげともさびしげとも憂わしげとも悩ましげともいえるまなざしに、玲の心がわずかに動いた。それは反発とでも呼べるものだったかも知れないが。
 玲はひえびえとした声音で言った。
「乞食だって、王子に似ていることもあるじゃないか」
 マーク・トウェインの文学作品になぞらえた返答は、彼女を興がらせたようだった。
「あなたは乞食だって言いたいの、坊や。試してみましょうか?」
 彼女は立ち上がった。クローゼットから服を取って、玲に渡す。
「衣装を変えれば、王子になるのは易しいわ」
 この人も、おおっぴらにできない趣味趣向の持ち主なのではないかという考えが脳裏をかすめた。黙然とその場でローブを脱ぎ捨て、緩慢なしぐさで着替えた。
 彼女がよこしてきたのは、さいわい男子用だった。深紅のスカーフがついた濃紺の水兵服に、同色の膝丈のパンツ。ハイソックスに、編み上げ靴。どこで入手したのか謎だ。
「姿見の前に立ってごらんなさい」
 そこに映っていたのは、洋画から抜け出たような、貴族の肖像画のような少年だった。
 湿りけが残る洗い髪を指ですきつつ、彼女が言った。
「髪にはさみを入れれば完璧ね。もっとも、この長めのスタイルも捨てがたいけれど。
 さ、これでもまだ自分を乞食だって言うつもりかしら? あなた気前がよすぎるわ。自分を安売りするなんてもったいないじゃないの」
 玲はやはり黙りこくっていた。自分の姿がたちの悪い冗談みたいで、あきれかえっていたのである。しゃれにならない。笑えない。「馬子にも衣装」というレベルをはるかに超越している。
 前々から、自分の容姿の端麗さは自覚があったが、いやはや、これほどとは。
「あなたにひとつアルバイトを紹介するわ。当たり屋なんかより、よほど割がいいはずよ」
 眼だけ動かして、玲は彼女を見やった。
「仕事の内容は、わたしとデートすること。月に一度くらいでいいわ。お食事に連れて行ったり、お店であなたのお洋服を選んだりします。すべて費用はこちらがもちます。そのうえお給金も払うのだから、あなたにとって悪いお話ではないでしょう?」
「変な人。それって調教っていうの? おれを自分の好みに仕立てたいってこと? 貧乏くさくてみすぼらしい子供を相手にするのはいやなわけ?」
「あなたは利発な、聡い子よ。なかなか素養もある。ぼんやりして、どこか足りないふうを装っていたけれど、見せかけでしょう」
「知らないよ、そんなの」
 玲はぞんざいに肩をすくめてそっぽを向いた。鏡面に映る少年も、こばかにしたように、鼻梁の通った横顔を見せた。
 我ながら、なかなかに小憎たらしい態度だが、相手は立腹したようすも見せず、ゆったりと笑みをうかべた。
「本能的に無意識のうちに演技しているなら、それもまたたいしたものだけど。
 そうね、アルバイトにおまけをつけましょう。この家で、自由に知識を得ることができるわ。本もコンピュータも好きに使えるってことでいかが?」
 その提案は、きわめて巧妙に玲の心をくすぐった。玲は常に知識に飢えていた。さまざまなおとなと接触したが、欲を完全に満たしてくれる者はいなかった。この人ならば、望みをかなえてくれるという確信がにわかに生まれた。
「あんた、何が目的? 何者なの」
「道楽よ。わたしは、唯一の孫を最近亡くしたばかりの老婆。それだけ」
「金持ちのなぐさみものってわけか。なるほどね。わかった。その件、引き受けるよ」
 山城迪香(やましろみちか)というこの人物が、自分の実父の前妻の母にあたるという、ややこしい関係を玲が知るのは、高校生になってからである。

「玲さんは、進路のこと、考えてるの?」
 中学三年生のとき、会食中にたずねられた。
 山城迪香は西陣織の留袖姿。玲はいかにも良家の子弟といった、洗練された装いと挙措だ。金銭目的でデートしている最中とは、誰もゆめゆめ思わないだろう。
 玲はすでに、自分を薄利多売にかけることをやめていた。要するに、おとなを手玉に取って、手を汚さずに籠絡するというやりくちを、会得するに至ったということなのだが。
 おまけに、交渉力が飛躍的に上昇したので、稼ぎもめでたく大幅にのびた。
「特に決めていませんが」
「高校は? 行きたい学校はないのかしら?」
 玲は動きを一瞬止めた。
 桜花高校に進学するのは、きわめて危険だ。演劇部が廃止されたら「あの人」のものになる、という交換条件を反故にするため、玲はひと月前から行方をくらましているところなのだ。
 それに、あの子が桜花高校にくるとは、限らない。
 しかし、だったらなぜ、自分はあの高校の演劇部を廃止させたのだろう。しかも、正々堂々と演劇部の不正をあばくというやりかたを選ばず、真実を闇に葬るというかたちをとって。前者のほうがよほど確実性がある。何より楽だ。自分をえさにすることもない。
 理由は、あの子の夢を壊したくないこと、ではないだろうか。だから、あの子が高校に上がる年齢に達する前に終わらせる必要があった。
 だが。ここで、ひとつ疑問が残る。
 いったい、あの子は男の子だったのか?
 今さら何をという、実に間抜けで滑稽な、それでいてきわめて重大性をはらんだ問題だった。
 桜花高校は男子校だから、当然男子でないと入学できない。あの子が女の子だったら、七年間の尽力は、大幅に意味を失う。
 玲にとって生まれてはじめて、気遣いのある言葉と態度で接してくれた人物。愛くるしいふわふわした服を着た、可愛らしい子供。さしだした白い小さな手を、玲が冷たく拒み、いたく傷つけた「ともよちゃん」。
 お金を稼ぐために策をこらしたことも、さまざまなおとなと渡り合ってきたことも、垢抜けた人間に変貌したことも、貪欲に知識と教養と情報を吸収したことも、根っこにあるのは「ともよちゃん」の存在ではなかったか。養母や実父や異母兄ではなくて。
「桜花高校」
 玲の唇から、無意識に声が転がり落ちた。
「あの、有名校のこと?」
 山城迪香が問うと、玲はこくりとうなずいた。言うはずでなかった単語を口にして、多少忸怩たるものをおぼえて。
「ですが、家には、ぼくを高校へ行かせるゆとりはないと思います」
「そんな心配をしていたの? だいじょうぶよ。わたしに任せて」
 どのように便宜をはかったのか、うやむやのうちに玲は桜花高校に進学し、自分の賭けが正しかったことを知った。
 玲には確かめたいことがある。あの出会いはほんとうに偶然だったのか。それとも、自分とゆかりのある人間と知ったうえで玲を雇ったのかと。
 たずねてはみたものの、さまざまな大物とコネクションを持っているという山城迪香は、ほんわかと笑うだけだ。
「もちろん、偶然よ。あなたが真琴(まこと)さんの子だと知っていたら、とうに教えているはずでしょう?」
 どこかはぐらかしているような返答。
 山城迪香は、父のことをどう思っているのだろう。ひとり娘を裏切った恨めしい男なのか。温和な表情からはまったく読めない。
 そもそも、その裏切りの証拠として生まれてきたのが、玲である。そんな子供を世話するなどとは、よほど懐が深いのか。
 疑いなく言えるのは、酸いも甘いもかみわけた、海千山千の食えない人物であるということだけだ……。

20040621
PREV

↑ PAGE TOP