ふるふる図書館


第三部

第四話 臥薪嘗胆の幼少時



「おい森川。来てるぜ、三組の春日玲」
 ホームルーム終了後、眉をひそめ声をひそめ、気の毒そうに同級生が告げてきた。
 うわ、またか。
「ここのところ、ずっとだよな? 何かやらかしちまったのか?」
「ううん、別に」
 森川知世は、顔にかろうじて愛想笑いをはりつけた。
「がんばれな」
 そっと力づける言葉を背に、知世はよたよた教室の戸口へと向かった。
 先日、はじめて会話をかわした春日玲は、どうしたものか放課後になるとひんぱんに、知世を迎えにやってくるようになっていた。
「あーあ、かわいそうに。入学そうそう眼をつけられちゃって」
「耐えてるようすもまたいたいけだよな」
「ふるいつきたくなるほど可愛いし。いったい、陰で何されてることやら」
「こらてめえ。知世ちゃんをけがすような発言は慎め!」
 同情と興味をこめてひそひそささやく同級生たちの間をすり抜け、知世は悄然と玲の前に立つ。
 ああ、誰か助けてくれないかな。知世はそわそわあたりをうかがう。だが、救いの腕など一本も、知世にさしのべられたりしない。
「遅かったな」
 玲は、とがめだてでもするかのような口ぶりだ。尊大と横柄と倣岸を絵に描いて、服を着せるとこうなるのだろう。
 ただでさえ怜悧な印象なのに、切れの長いきつい瞳をすがめるものだから、かなりぞくりとする。ずば抜けた器量よしなので、よりいっそう、体温が下がる心地だ。
 いやいや、別に約束していたわけでもないのだから、非難されるいわれはないはずだ。
「ごめん」
 釈然としないながらも目線を落とし、とりあえず謝っておく。そこでささやかな反撃を思いついた。
「先に帰ればいいじゃないか。どうしておれを待つんだよ」
「いやがらせ」
 あまりにあっさり答えるので、知世はがっくり肩を落とした。それが理由かい。
「森川にもメリットがあるぞ。虫よけになるじゃないか」
「は?」
「おかしな虫が寄ってこないだろう」
 意味がわからず首をひねると、玲は片眉を器用につりあげた。
「そんなことも気づかずに、よく男子校に通えるな。そのうち、懐に短刀でも忍ばせておかないと、あやうくて、うかうか学校にも行けないってことになりかねないぞ」
「あやういって何がさ?」
「操」
 知世は精神的にぐらりと二、三歩よろめいた。
 よくもさらっと言えるな、そんなおぞましいことを! まるで明日の天気の話題のように気軽にさくっと!
「身におぼえ、ないけど……」
 やっとのことで立ち直り、もぞもぞつぶやくと、「鈍いな」とひとこと吐きすてられた。
 気づかないほうがはるかに幸せだ。男に言い寄られてもうれしくない。ましてや、のしかかられたり押し倒されたりなんて、想像するだに背筋が凍る。
「なるほど。そうか森川、お前にとっておれはじゃまなのか。おれがいなけりゃ、相手は各種よりどりみどり、お好きな男を好きなだけ」
「いらない!」
 玲の揶揄に、知世はぎりぎり歯ぎしりしたくなるのをこらえた。そんなよこしまな理由で桜花高校に入学したのではない。断じて違う。
 だが、あこがれていた演劇部は廃止されたと聞くし、これからの三年間、何を励みに高校生活を送ればいいのだろう? ああ。
「だったら、おれがいたほうが好都合じゃないか」
 しまった。言質をとられた。
「よこせよ、鞄持ってやる」
「いやいいよ」
 知世はほほえみながらもきっぱり即答した。だが相手には屁のつっぱりにもならないらしい。
「遠慮するなって。お前の細腕じゃつらいだろ、ありがたがれ」
 知世の手から、やすやすと荷物をひったくった。
 実はおためごかしである。知世の逃げ道をふさぐための手なのだ。教科書やノートが入った鞄を置いて逃走できまいと、行動を読まれているのだった。
「ふん、相変わらず重いよな」
 文句をつけられる筋合いはない。頼みもしないのにポーターをかって出たくせに。
「だから自分で持つってば。返してよ」
「どうせ、辞書やら勉強道具やら、律儀に毎日持って帰ってるんだろ。くそまじめにさ」
 悪かったな。ああそうですよ。どうせおれはくそまじめですよ。
 鞄を可能なかぎりぺちゃんこにすることがトレンドだってことも、ぱんぱんにふくらんだ鞄がださいってことも、ちゃんとわかってますよだ。
「それで、宿題や予習を忘れたやつに、親切に見せてやってるわけか。はなっからお前のノートをあてにして、まったくやる気のないやつにまで。優しくにっこり笑ってさ」
 きめつけられて、知世は両手で顔をなでまわした。まだ、笑いの残滓がこびりついていた。人の視線を感じると無条件に愛想を振りまいてしまうのは、かなしき習い性というべきか。
「そんなの親切とは違うぞ。ただのばかだっての」
「だって見せてって言われるんだもん、しかたないだろ」
 ぼそぼそ反駁すると、ふふんとせせら笑いが返ってきた。
「まーな。首席で入学したのはみんな知ってるわけだからな」
 入学式のとき、壇上に立って新入生の挨拶をしたのは知世だった。地味に地道に生きていくのが身上だったのに、である。
 緊張のあまり声とひざがふるえ、挙句の果てに、おでこにスタンドマイクをぶつけ、ハウリングまで起こしてしまった不名誉な逸話は、のちのちまでの語り草になるのだろう。
 ああ、入試で適当に手を抜いておけばよかった。そうすれば、代表に選ばれずにすんだのに。
「お前さ、手抜きのやりかたって知らないだろう」
 考えを盗み読んだかのような玲の言葉に、知世はぎょっとしたが、なるべく表面に出さないように努力した。図星をつかれるなんて悔しいじゃないか。
「いつでも笑顔を絶やさずに。先生の言うことはまじめに聞き。校則はきっちり守り。勉強にしっかりいそしむ。まったくいい子だよな。ほんと、ほんと」
 知世は、夕日を眺めやり、ささくれだつ感情をかろうじて鎮めようとした。
 気づくと、人っ子ひとりいない川沿いの道に出ていた。知世の下宿先とは別方面である。また主導権を握られていたようだ。
 何が楽しゅうて、こんなにしみじみ美しい初夏の夕暮れに、不快な思いを味わわないとならんのだ? 伯母の笑顔と手づくりおやつが、家で待っているというのに。
 玲の話はまだつづいている。よくもまあ、ひとが指摘されて癪にさわる罵詈雑言を、次から次へとうとうと。立て板に水とばかりに。弁舌たくみにさわやかに。
 まじめでいい子な優等生、という金看板を、誰より偽善がましく感じているのは、ほかならぬ知世自身だ。それをふまえての攻撃に決まっている。まったくみごとに外さずに、痛いところをついてくる。
「危なっかしいやつだよな。学校で教わったことだけにしがみついてるなんて愚の骨頂だ。将来何の役にも立たないのに。
 おとなになったら何ひとつ残らなくて、ただの抜け殻になり果てて、青春時代の栄光にみっともなくすがるのが関の山ってところだな」
 目的のためには法に抵触しても平然としていられるようなやつに、危なっかしいと評されようとは世も末だ。
 人を本気で逆上させる天才だ、こいつは。そんな挑発にのるものか。のってなんかやるもんか。のったらやつの思う壺だ。
 知世は、ぶちっと何かが切れる音を聞いた。すでに磨耗し、もろくなっていた堪忍袋の緒というやつだ。もう辛抱たまらん。怒髪天をついたぞ。
「うるさい」
 低く押し殺した声が、玲をさえぎった。それが自分のものだとわかっておどろくひまもなく、口からとびだす激昂した叫び。
「うるさいんだよ、黙れ!」
 玲は黙った。知世のほうは歯止めがきかない。温厚篤実な人間を追いつめるとこうなるのだ、肝に銘じやがれ。玲にあとで反撃されるのだろうが、かまうもんか。あとは野となれ山となれだ。
「それで、おれがお前に何か迷惑かけたのかよ?
 苦労して予習、宿題してきながら、人にノート丸写しさせてやってるのがばかみたいだと? いちいち人の頼みを断って、波風立てるような面倒くさいことおれにやれっていうことか?
 いいじゃないか、利用されたって。頼られるうちが花なんだからな。知らないうちにノートを盗まれて、ごみ箱とか便器の中とかに放りこまれているのを発見するよりは、よっぽどましじゃないか!」
「そんなことされたのか?」
「されたから言ってるんだ!」
「お前、いじめられてたのか? いつ、誰に?」
「言いたくないに決まってるだろ!」
「ほほうそうか、言いたくないか。ならばぜひとも吐いちまえ。包み隠さず正直に」
 しつこい。知世はやけのやんぱちになった。
「おれは見た目こんなだろ。いやっていうほど自覚させられてるんだ。小さいころから。
 オカマだの、オンナオトコだのはやしたてられ。気持ち悪いと罵倒され。身体検査と称して、遊び仲間に強引に服を脱がされ。あれやこれやといたずらされてさ。
 相手に罪悪感なんてなかっただろうけど、おれは病弱だったから、力で抵抗できなかったんだよ。元気で乱暴な遊びはできないから、男子連中には溶けこめなかったし、女子にまじると男子にからかわれるしで、友達なんてきれいさっぱりいやしなかった。
 子供なんかみんな敵でさ。せめておとなの言いつけは素直に守るしかなかったんだ。
 父は家庭なんかかえりみない人だし、愛人こさえて生活費入れなかったから、母は朝から晩まで働きづめでさ。家族に相談なんてできやしなかったよ。
 自分より成績が悪いやつを見下すよりも、親切にしてやったほうがよかったんだ。あてにされるのうれしかった。それに恩を売ればいじめられずにすむじゃないか。
 どうせね、お前の言う通り、愛想笑いは十八番だよ。昔から。いちいち怒ったり悲しんだり、そんなの疲れるだけじゃないか。傷つくだけ損じゃないか。相手をよろこばせるだけじゃないか。
 だったら笑ってやるさ。どんなことをされても、おれはこたえちゃいないんだからな!
 おとなの言うことを従順にきくのも、勉強ができるのも、ただの保身の手段だよ。おもねったり媚びへつらったり八方美人でいたりするのもさ。  まわりの男子は背がのびて、筋肉ついて、声変わりしていく中を、おれだけ発育不良で取り残されて。あせりもあったし、怖かった。おれを力でねじ伏せるなんて、その気になれば簡単だもん。そんな気持ちは隠したかったから、ひたすら仮面をかぶっていたんだ。
 おれはまじめないい子なんかじゃない。品行方正で親切な優等生なんかじゃない。びくびくしながら身の安全をはかってる臆病者、ただの卑屈でせこい小心者だよ。
 どうだわかったか。まいったか、このやろう!」
 はあはあ息をはずませて、知世は玲を睨みつけた。大声を出すのは不慣れなうえに、息継ぎの間も惜しんで怒鳴りつづけたため、酸欠を起こして頭の芯がくらくらした。
 知世は怒り心頭なのである。めらめら、むらむら憤怒の炎が燃えさかっているのである。
 なのに、目路がにじむのは、いったいどうしたわけだろう。あな情けなや。ひっこめ涙。
 こんなやつの前でなんて、末代までの恥じゃないか。我を忘れてわめき散らし、あまつさえ、封印しようとひそかに誓った悲惨な過去と劣等感をぶちまけただけでも、じゅうぶんすぎるほどなのに。
「なんだ、ちゃんとできるじゃないか」
「こんなやつ」が静かに口をひらいた。表情はぼやけて判然としなかった。
 自分の今の支離滅裂な発言をかんがみるに、怒りをぶつける相手は違うのかも知れない。だが玲が悪い。断然悪い。ああそうとも、一方的にこいつのせいにしてやる。
「森川、お前って天然の詐欺師だな。しかし他人をだませるほど頭と腕がないものだから、自分だけをだましている」
 おれが自分をだましていたって? 十五年間ずっと? それが事実なら、今まで気づきもしなかったおれって、相当の間抜けってことか? そうなのか?
 知世の前に、ハンカチがさしだされた。
「使え」
「やだ。おれは泣いてなんかいないもん」
「嘘をつけ。それは何だよ」
「心の汗だ」
「往年の学園ドラマかよ」
 玲は知世の後頭部をつかみ、長身をかがめて、ハンカチでごしごし知世のほっぺをぬぐった。うらやましいほど長い指だ。払いのけようかと思ったが、さっきまでごうごうとまくしたてて疲れていたので、なすがままにされてみた。
 意外なことに、ほんの少し、こころよさをおぼえる。不可解だ。
「心の汗をかかれたところを見られたら、お前の親衛隊が報復措置を取るだろうからな。ま、雑魚が束になったところで痛くもかゆくもないが、うっとうしいし、相手するだけ時間のむだだし。ほれ食え」
 口の中に、棒つきキャンディーがつっこまれた。幼稚園児かおれは。
 暴言を吐いたことに対しててっきり倍返しされると覚悟していた知世は、肩透かしをくらったていでぼんやりしていた。
「森川、桜花に入って正解だったな」
「どうして」
 知世がずずっと盛大な音を立ててはなをすすってたずねると、玲が返した。
「そんなの、自分で考えろ」
 つきはなす口調とうらはらに、眼の色がわずかにやわらかかった、ように感じた。どうせ、夕焼けが見せた錯覚だったのだろうが……。

20040621
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