第三部
第三話 紆余曲折の青春期
根岸麻人は、同じクラスに在籍している森川知世が大きらいだ。
桜花高校に入学したときから。
麻人を含めた周囲の誰もが、今年の受験者のトップは綾小路那臣(あやのこうじなおみ)だと信じて疑わなかった。彼は、麻人と同じ中学校に通っており、学区内ではけっこう有名人だった。よくも悪くも。
だがふたをあけてみれば、ぶっちぎりの第一位で入試をパスしたのは、まるで知らない人物だった。
入学式が始まる前、自分に割りあてられた教室で、同じ学級になった首席入学者の姿をはじめて間近にした。
びん底めがねの、肥えたがり勉という、べたな想像とまるきり異なっていた。一度会ったら忘れないであろう少年だ。
森川知世。
女のような名前を裏切らない外見だった。きっちりとボタンを留めた、新品の制服がぶかぶかに感じられるほど小柄で、色が白い。虚弱体質か? ちゃんと飯を食っているのだろうか。
「新入生代表の挨拶をするんだって?」
麻人は声をかけた。まわりでは多少なりとも話の輪ができあがっていたのだが、知った者がいないせいか、知世は席にひとりでぽつんと座っていたのだ。
知世ははっとしたように眼を上げた。小さな顔に不釣合いなほど大きく、色素が淡い。思わず麻人が見入ると、すぐに伏せられた。動脈さえも透けて見える、もろく壊れやすそうなまぶただった。
「うん」
心細げ、たよりなげな小声だ。女といっても通用しそうな声音。麻人の視線を避けるかのようにうつむく。これまた女のようにさらさらした前髪が、その顔を隠した。
自分の学業のよさを鼻にかけるやつではなさそうだと思ったが、麻人はなぜか、激しくむかついた。
しかしよくよく見れば、知世のおももちはこわばっていたし、顔色もすぐれなかった。緊張しているせいか、と考え、麻人はつとめて相手に好感を持とうとした。
出席番号も一番違いだし、これから何かと接点も多いだろう。成績優秀な人間と親しくしておいて、損はないはずだ。
「がんばれよ」
麻人の励ましは少々おざなりだったが、知世は小さく「ありがとう」とほほえんだ。
だが麻人の努力は、いっこうに実を結ぶ気配を見せなかった。
第一印象通り、知世は、おずおずとかおどおどとかもじもじとかいう形容が実に似合う性格だった。
話していると、否、姿かたちが視界に入るだけで、麻人はある衝動に駆られてしかたがない。思いっきりひどいめにあわせてやりたくなるのだ。かなり嗜虐心をそそるタイプらしい。
だからといって、いきなり問答無用に殴りつけるのは、あまりに理不尽。麻人はおのれにとくと言い聞かせ、ぐっとこらえる。知世は麻人のげんこつなんか食らった日には、ひとたまりもないに違いない。
入学して一週間もたたないうちに、知世の信奉者が校内に生まれ、着実に数を増やしていた。そんな集団を敵に回すほど無謀ではない。麻人は深く胸に秘めた思いと、日々孤独な格闘をくりひろげていた。
同時に、にがにがしい気持ちもあった。みんな、みごとにあいつの表面にだまされやがって。そりゃあ、あいつはきれいで可愛い。その点はいさぎよく認めよう。
背が低いので、知世はひとと話すときは自然に相手を見上げる。それがけなげな感じをかもす。ちょっと上目づかいになるのもまた、すがるようであわれを誘う。まぶたを伏せると、密生したまつげの長さにはっとさせられる。
そんな知世に彼らがお熱を上げるのは、存分に納得と理解がいった。
それにしたってまんまとたぶらかされて。どうして誰ひとり、あいつの本性に気づかないんだ。
人の顔色をうかがってばかりの、卑屈な人間なのに。
古文の授業が、課題を出されて自習になったことがあった。教室がしだいにさわがしくなったが、隣で教鞭をとっている教員が叱りつけにこない程度だった。麻人は後ろの席の知世を振り向き、教えを乞うた。
「おれさ、きらいなんだよ古文。わけわからん。どうだっていいじゃないか、春はあけぼのだろうが小錦だろうがさ」
麻人がぼやくと、知世は首をかしげた。
この動作がたまらん。お前、自分の容姿がもたらす魅力をわかってて、計算づくでやってるだろう、絶対に。麻人はひそかに、胸倉をつかんでゆさぶってやりたくなる欲望と戦った。
「そう、かな」
知世は、考え考え、おっとりゆっくり喋る。自信なさげな印象に、その話しかたが輪をかける。麻人はむかっぱらをおさえつつ、次の言葉がつむがれるのを見守った。
無意識なのだろうか、知世は唇を指先でなぞるくせがある。どうしても視線がそっちにいってしまう。つややかでやわらかそうな桜色の唇に。あーちくしょう!
「楽しいよ。おれは好きだけどな」
「……楽しいだ?」
麻人は凶悪気分まっさかりで、知世をぎっと睨み見た。相手の肩がびくりとした。
「う、ううん、そんなことはないよね。あははは」
ごまかすつもりか、へらっと笑う。
わかったぞ。こいつ、学業成績抜群でも、頭はよくないんだ。
「何いじめてるんだよ、根岸」
隣席の生徒が、麻人をどやしつけた。
「そんなことしてねーよ」
「どこがだ。般若みたいな顔してたぞ。森川、こんなおっかないのはほっといてさ。おれに教えろよ」
「あっ抜け駆けするとは汚いぞ。おれも」
別の生徒が尻馬にのる。
知世に支持者がいることなど、本人のあずかり知るところではないようだった。もしも知ったら、困り抜いた顔で下を向いてしまうのだろう。耳まで真っ赤に染めて。
授業でおこなった試験の答案用紙を返却するたび、高得点者が発表される。視線が知世に集中する。そんなときでも、知世はどうしていいのかわからないていでうつむいてしまうのだ。身の置きどころがないって感じで。
堂々としていればいいじゃないか。実力で取った成績だろ? なんだって、そんなにばつが悪そうにしてるんだよ? まったくいらいらする。
麻人にとって予想外だったのは、体育の授業でやった体力測定で、知世がかなりの好成績をおさめたことだった。
特に短距離走のタイムは、見物していた同級生がどよめいた。
「すごいよ森川、俊足なんだな」
口々にほめたたえる同級生たちに囲まれて、知世は困惑したように眉をわずかに寄せた。一瞬、いつもの表情を浮かべるのを忘れたように見えた。
つまりこうだ。無力でかよわく見せかけたほうが、みんなにちやほやされ、可愛がられ、守ってもらえる。だが、力を調節しそこねて、運動神経のよさを発揮してしまった。しまった、失敗した、という表情だったのだ。
誰も、麻人と同じ疑惑をいだいたようすはなかった。麻人がうがちすぎなのだろうか。他人の心理をあれこれ推測するような趣味は、もともと持っていない。
しかし、知世の正体を知っている者は、自分のほかにはいないのだという、直感じみたものはしっかりと根をおろしていた。
新しいクラスになかなか溶けこめないでいた知世を、いちばんかまってやったのは自分なのだ。学級委員長の綾小路那臣よりも。そんな自負めいたものが麻人にはある。
打算的なくせに、聖人君子ぶって。今に見てろよ、化けの皮をはがしてやる。
麻人は、知世につきまとうことに決めた。
ほとんど宿題や予習をしてこず、知世のノートを全面的にあてにする。
これなら気分を害するだろう。知世は工夫をこらして完璧に丁寧にノートをしあげているが、かなりの手間ひまがかかっているはずだ。それを丸写しさせられるのだから、たまったものではなかろう。いくら、勉強は楽しいものだ、ひとえに自分のためにやるものだ、と小学一年生並みに信じていても。
だが敵はしぶとかった。「たまには自分でやってこいよな」とさえも言わない。
上等だ。こうなったら根くらべだ、受けて立ってやる。もっと策を強化してみた。
採点された答案用紙や、模試の結果表、通知票をわたされるたび、「見せて見せて」としつこくねだる。ねちねちごねる。
「だーめ。秘密。根岸が教えてくれたら言うよ」
知世が隠しても、一歩もひかない。
「おれが、人に言えるような点、取れるわけないじゃないか。いいじゃん、どうせよかったんだろ?」
知世は、数学の点だけはすんなり教えてくれる。はじめて知らされたとき、麻人はおおいに面食らった。
平均点よりも麻人の得点よりも、はるかに下回っているではないか。いいのかよ、と思わず知世を見やれば、赤点すれすれのくせに気にしたふうもなくけろっとしている。
「数学は苦手なんだ。赤点を取らないのが目標だから。追試になるの、いやだもんな。二回も試験受けたくないよ」
つまり、自分の不得手なものはさっさとあきらめて、必要最小限の時間しかかけずにすむように、必要最小限の努力だけをしているということなのだ。これだから、余裕のある人間は。まったく。
それに、何なんだよ? まさっている能力はひとに見せたがらないくせに、劣っている能力はさらっと見せやがって。しかも、ちょっとだけ楽しそうで。なんていやなやつだ。そんなにしてまで、万能人間だと思われたくないのかよ?
ルックスも成績も運動神経もいいんだから、嫉妬されて騒がれるくらいどうってことないだろうが。
一年生、二年生のときと同じく、知世は今も麻人と同じクラスだ。
学業で首位の座を保持していることは相変わらずだったが、いつの間にか、何かにおびえる小動物みたいな挙動はなりをひそめていた。
よく怒り、よく笑う。くるくると変わる表情のめまぐるしさには、麻人もつい眼をひきつけられる。毎日見ていて、ちっとも飽きない。だが、自分の可愛らしさに裏づけられたような演技がある。そうに決まっている。
とうとう、新聞部から取材を受けるまでになってしまった。全校生徒がだまされてしまうではないか。あのぺてん師のうわっつらに。
以前の態度が消えたのは、あの悪名高い春日玲とつきあってるせいなのか。だが、玲だって、麻人よりは知世のことを見ていないはずだ。なにしろ麻人はこの二年間毎日、知世の動向をあまさず見つめているのだから。
どれほど明るく陽気にふるまってみせても、うまくダークサイドから逃げおおせたつもりでも、麻人の眼はあざむけない。人見知りで自信がなくて臆病で、人目にこだわり自分自身をしばりつけ、自己嫌悪におちいりやすい人間、それが森川知世の本来の姿だ。
どうすれば、ダークサイドにいるほうの知世を、もう一度白昼のもとにひきずりだすことができるのだろう。
殴りつけるか、蹴りつけるかしてみようか。いや、それでは効果がない、今となっては。
「おれたちほんとは仲悪いんだよな。根岸がいじめるんだ。こいつってば、おれのこときらってんの」
知世は冗談めかした口調で同級生に言う。それを聞いた麻人の胸が、きゅっとしめつけられることも気づかずに。
言いたいことがあるのにうまく表現できない、あの困り果てた眼を見るためには、まったく逆のことをすればいいのだ。
闇討ちみたいに背後から暴力をふるい、ひとめ会ったときからずっとお前のことが大きらいだった、と冷たく告げるのと、いっさいがっさい反対のことをする。
闇討ちみたいに背後から抱きしめて、やさしく告げる。ひとめ会ったときからずっとお前のことが……。
「うげえ、何だよそれ! 違うだろ! ばかかおれはっ!」
自分ではじめたイメージトレーニングに麻人は激しくうろたえ、あわてて脳裏から空想を追い出した。
やはり、森川知世は好きになれない。どうしても。何があっても。絶対に。絶対に……!