ふるふる図書館


第二部

第九話 愛と平和



 隣の部屋をへだてるドアをどんどんとたたく音がした。
「どうしたの、何かあったの」
 音を聞きつけたのか、森川知世が呼びかけている。
「来るな。言いつけを守らないと殺すぞ」
「殺されてもいい。入る」
 春日玲の制止を聞かず、ドアがひらいた。
 ナイフを手にした父と、額から流血している玲を見て、知世はさっと顔色を変えた。小柄な身をていしてかばうように玲の前にとびこんで、父の胴体にしがみついた。
「何をするんだ、危ないぞ」
「お願い、殺さないで」
「……はあ?」
 はからずもユニゾンになった。親子は等しく気が抜けたように知世を見やる。知世は今にも泣き出しそうになっていた。
「そりゃあ、こいつは傲慢で生意気で毒舌家で意地悪で皮肉屋で小憎らしくて、非道で外道で横暴で横柄で、人を人とも思わない冷血人間です。恨みつらみもおおいにあるでしょう。殺意が芽生えて当然です。おれだって、背後から蹴飛ばしたくなることあるし。つっけんどんで、じゃけんで、きつくて、とげとげしくて、木で鼻をくくるようなことばっかり言って、まったく腹立たしいのなんのって。
 でも、まだ十七歳なんです、こう見えても。若いみそらです。死んだらうかばれません。きっと化けて出ます。生きてても充分おっかないんですよ。死んだら無敵になっちゃうじゃないですか。夢枕に立たれたらどうするんですか」
 室内を、しばし静寂が支配した。
 だしぬけに、静けさをゆさぶる哄笑が響き渡った。父だった。刃をおさめて言った。
「おもしろい。気に入った。いい友人を持ったな、玲。お前にそんな友人がいるなんて、信じられないが。僥倖と呼ぶべきかな。
 いいだろう、お前の勝ちだ。お前や演劇同好会には、もう迷惑をかけない。約束しよう」
「そんなに簡単に信用できませんね」
 眼をぱちくりさせている知世を父からひきはがし、玲は反駁した。
「だったら、証拠の品はお前が預かっておけ。もう気がすんだ。これ以上望むのは贅沢ってものだろう」
 玲の傷にティッシュをあてがっていた知世が、柳眉をひそめた。
「あんな脅迫状を出しておきながら」
「脅迫状?」
 父は合点のいかない表情になった。
「とぼけないでください。下駄箱に入っていたあの手紙です」
「ああ、あれか。脅迫状のつもりはなかったんだがなあ。ははあ、そうかそうか、脅迫状か。そう見えるのはもっともだな。いや、まともな手紙では、玲はわたしに会おうとしてくれないのでね」
「それに春日は襲われたんですよ。柄の悪い連中に。あなたの差し金ではないんですか」
「顔のガーゼはそのせいか。おそらくわたしの秘書がかってにやったことだな。くびにしておく。この玲は最高傑作、神に近い器だというのに、手出しをしようなんざ一億年早い」
 この大上段ぶりは、まさに玲とそっくりだ。遺伝のなせるわざなのか?
「いろいろとすまなかったな、森川君。ほかの友達にもよろしく言っておいてくれ。それから、玲と仲よくしてやってくれ、とも伝えてほしい」
 どうにも変てこな父親だ。芸術家という身分は、変人ぶりを増長させるのにもってこいだ。自分にも、同じ遺伝子が受けつがれていると思うと、前途への希望が薄れる。
「何だか、春日のお父さんみたいな言いかたですね」
 毒気を抜かれたような知世の発言に、父は意外そうな顔をした。
「世の中の父親は、こんなことを言うのか? きみの家でもそうかい?」
「うちの父はまっとうじゃないから、違いますけど。我が家は半分以上家庭崩壊しているから、参考にはなりませんよ」

 先に知世を部屋の外へ出し、玲は父と対峙した。
「結局、あなたはいったい何がしたかったんですか。約束を破った息子への報復ですか」
「わたしの遺伝子を持つ唯一の人間を、実際に観察したかったのさ。どんなふうに育って、どんな環境で生活していて、危機にはどう対応するのか。存分に楽しませてもらったし、好奇心も満たされたよ」
「どうか普通に見守ってほしいものですね」
 父のおもちゃとして、手のひらの上で遊ばれていただけだったのだ。完全に敗北した格好だったが、屈辱感もわいてこなかった。
 まともな神経ではとうていかなう相手ではない。父をしのぐクレイジーな大物になるくらいなら、父に勝てないふつうの小物でいるほうが、はるかにましだ。
「改めて提案する。わたしのもとに来ないか。お前はいかようにも磨けるダイヤモンドの原石だ。ゆたかな才能を埋没させておくのは、あまりにも惜しい。美と芸術に対する冒涜だ。今のお前は、牙を抜かれた獅子、刃こぼれしたナイフになり果てている」
 父は玲のナイフをもてあそんだ。いつも玲が身につけている、ヴィクトリノックスのナイフ。買ってくれたのは父だったが、おぼえているのかどうか。
「あなたはそうして、青少年を『指導』してきたんでしたね。昔のギリシアや日本の文化にならうみたいに」
「茶々を入れたところで、挑発にのらんぞ」
「夢を打ち砕くのはしのびないですが、ぼくはあなたが思っているよりずっと凡人ですよ」
「はたしてそうかな? お前は、仲よしに囲まれた、なまぬるい日常生活がものたりなくて、退屈しきっているんじゃないのかい? 卓越した頭脳と感性を活かしきれず、さびついていくことを危惧しているんじゃないのかい?」
「ついさっき、いい友人を持ったとおっしゃいましたよね」
「それとこれとは話が別だ。目的を達成するためには最善のものを選び取る。お前は百も承知だろう」
 玲はせいぜいうそぶいてみせた。
「ぼくには今の生活が性に合っているのです」
 父はナイフを返し、玲のあごを指でつまんで仰向かせ、じっと見据えた。
「期待しているよ、演劇発表会を。もしもわたしを失望させるものだったら、お前を呼び寄せる。どんなにお前がいやがっても、力づくで。三年前の約束を守ってもらうぞ」
「肝に銘じておきましょう」
 玲は、父を正面から睨みつけた。父が心地よさげに笑う。
「相変わらず美しいな。怒りを含んで、冷たい炎を宿した眼も魅惑的だ。
 お前は断じて子兎などではない。優美で、誇り高くて、油断できなくて、敵には容赦なく爪を立てる猫だな。そのほうが実によく似合うよ」
 なんだかもう身をよじりたくなるほど噴飯もののせりふだが、父が発すると堂に入っているのだからたいしたものだ。変人ぶりもここまで格が上だと、ひたすら恐れいるしかない。全面降伏だ。
 出ていくとき、玲は鍵を父にほうった。証拠品を入れておいた駅のロッカーの鍵は、放物線をえがいて父の手におさまった。
「恐喝やゆすりたかりはこれでできませんから、ご心配なく。さよなら、お父さん」
 ひとり廊下を歩きながら、玲は父の言葉を反芻した。自分の変容ぶりに気づかずにいられなかったのである。
 けんかの強さというのは、相手にダメージを与えることにいかに躊躇しないかで決まる。たとえば大のおとなでも、小学生が牛刀を振りかざして本気で立ち向かってきたら、かなわないかも知れない。
 むろん玲は、まったく躊躇をおぼえない人間だった。自分の敵と見なせば、平然と相手を叩きのめし、病院送りにしてきた。
 だがなぜさっきは、ナイフを持つ手をゆるめた?
 いや、いったい何が自分をこんなに変えたのか? いったい誰が、玲を今の玲にした?
 いやいや、答えはとうに出ているのだ。
 自問を打ち切り、玲はまっすぐにロビーに向かった。知世の待つ場所へと。

 知世は所在なげに、ソファに浅く腰をおろしていた。
「帰るぞ」
「うん。あれ、また血が出てるよ、玲。痛くない?」
 すっかり忘れていた切り傷がうずいた。知世は玲を隣に座らせると、ポケットからハンカチを取り出して、玲の額に当てた。花の香りがした。十年前と同じだ。
「お前、けがばかりしてるね、おれのそばでさ」
 知世は十年前をさして言ったのだろうか、との考えが一瞬よぎったが、ただちに玲は否定した。たとえおぼえていても、そのときの子供が玲だと気づいていないはずだ、このうつけ者は。おとといのことを言ったのだろう。
 知世は玲の傷にばんそうこうをはり(男子高校生が持ち歩くか、そんなもの)、玲の前髪をなでてととのえながら、おずおずと切り出した。
「ごめん。お前の言いつけ破った。絶交? それとも殺される?」
 玲はあきれて、片手で知世の両側のほっぺたをはさみつけた。口がひよこのくちばしのようにとんがる。ぴよぴよ歌い出しそうな間抜けづらを見て玲は盛大に吹きだした。
「このあほう。もう行くぞ。飛鳥も滝沢も待ってる」
 知世は、ほっと安堵の色をうかべた。先に立ってふかふかのじゅうたんを踏みしめて歩き出し、玲はくるっと身をひるがえして知世に向き直った。
「そうだ。お前さっき、なーんて言ったっけ? 傲慢で生意気で毒舌で意地悪で皮肉屋で小憎らしい? 非道で外道で横暴で横柄? よくもまあ、言いたい放題ぺらぺらと」
 知世はみるみる青ざめた。視線を左右に泳がせて、「いやいやそれはその、あははは」と意味なく空虚な笑い声を上げる。相も変わらずおちゃめなやつよ。
 玲は、ことさらにっこりしてみせた。知世のひきつった笑みが凍りつく。ふふん、ういやつめ。
「ま、今日は特別に不問に付す。おれが寛大でよかったな。ひれ伏して感謝しな」
 知世は、不審げな目つきになった。あっさりひきさがる玲が、よほど不気味だったのだろう。
 もちろん仕返ししてやるさ、今日このときでなければな。

 その夜、桜花高校の演劇同好会が無事に存続できることを祝って、喫茶店「ハーツイーズ」でささやかなお茶会をもよおすことにした。
 出席者は玲と知世のほかに、飛鳥瑞樹と滝沢季耶。
 一行が店に入ろうとしたとき、ばったり出会った人物がいた。
「おや、今までけいこしてたのか。熱心だな。ご苦労ご苦労」
 演劇同好会の顧問、木野忍教諭。四人は顔を見合わせた。このひとの存在をすっかり忘れていたのはみんな同じだったらしい。代表して知世がきいた。
「先生、最近身のまわりに困ったことはありませんでした?」
「困ったこととは違うが、妙なことはあったな。職場で、おれあてに電話がかかってきて、同好会の顧問をやめなければ、ある年上の女との関係をばらすぞ、と言うんだ」
「はあ。それで」
「もちろんおれはよろこんださ。願ってもないチャンスだ。どうぞ広く宣伝してください、と答えたら、それっきりになっちまった。残念だ」
 表情も口調も、至ってまじめなのが怖い。
「そ。そうですか。ではおれたちはこれで」
 知世は、へなへなと力が抜けたような顔つきで、よろよろと店の扉をあけた。
「いらっしゃいませ」
 店員の葛原純が、相手をしていた客からこちらに向き直った。
「あ」
 季耶が声を上げた。玲も気づいた。純に話しかけていた人物は、季耶と瓜ふたつだ。
「ほう、そっくりだな。双子か」
 玲がたいしておどろいていないので、知世はがっかりしている。ふふん、これしきのことでびっくりさせようなんざ甘い。
「森川さん、こんばんは。それからみなさん、はじめまして。いつも弟がお世話になってます。兄の滝沢陽耶です。お見知りおきを。今後とも、ひとつよしなに」
 扇子でぺん、と頭をたたく。
「ああ、こいつのことはきれいさっぱり無視してください。かかわっても何ら利益はありません。これっぽっちも。百害あって一利なし」
 季耶が言うのもおかまいなしに、陽耶は広げた扇子のかげから玲と瑞樹をじいっと見つめた。
「ほうほう。ふんふん」
 何やら一人合点して、ぱっと扇子を閉じる。
「うむ、合格」
 重々しく言い渡す。
「とき、お前、いつからこんなハイレベルな人脈を築けるようになったんだよ? よし決めた。おれ編入するぞ、桜花に。編入試験に受かったあかつきには、おれのことを謎の転校生と呼んでくれたまえ」
「おれの双子の兄弟だって一目瞭然なのに、何が謎だ。だいたいな、あき、女子のいない学校に耐えられるのか?」
「身も心も不細工な女より、身も心も美しい男のほうが断然いいに決まってる」
 知世が首をかしげた。
「陽耶君って、自分で言うほど女の子好きじゃないんじゃないの? 好きなら、季耶君の彼女候補を追い出したりしないと思うんだけどなあ」
「うわあああ。そーかあ。そーだったのかあ、おれったら」
 陽耶が頭をかかえて叫んだ。喫茶店の中で騒ぐな、他の客に迷惑だ。
「そうか、季耶君のことがいちばん好きなんだね。ほんとにうちの学校に入ったら? 四六時中季耶君と一緒にいられれば、枕を高くして眠れるよ」
「無責任にたきつけないでくださいよう、森川先輩。絶対おもしろがってるでしょ」
 わいわい賑々しい連中を尻目に、玲はさっさと席に着き、純にチェリータルトとピンクレモネードを注文した。
 ふだんと変わらない、たわいもなくはしゃいだ時間。
 父の言うことは的を射ていた。たしかに現在は、自分が深く研ぎ澄まされていく感覚をおぼえることなど皆無に近い。
 一瞬でも隙を見せれば負けになる危うい駆け引き、ときには残酷なほど切れ味鋭い言葉の応酬、心地よい緊張感につつまれた知的で怜悧なゲームを、以前の玲は強く好んでいた。父との交流を戻せば、ふたたびあの刺激と楽しみを味わうことができるのだろうか。
 玲はかすかにかぶりを振った。それでも、やはり自分は……。

20040621
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